東京都立工科短期大学の歴史

今の日野キャンパスが出来たのは、1972年のことでした。当時は、首都大学東京の前身の東京都立科学技術大学の、そのまた前身にあたる東京都立工科短期大学の時代でした。これは、どのような学校だったのでしょうか。

東京都立工科短期大学の概要

1972年、品川区鮫洲に所在していた「東京都立工業短期大学」と、荒川区南千住に所在していた「東京都立航空工業短期大学」の2短大が移転・合併して発足したのが、東京都立工科短期大学です。所在地は日野市西長沼1703、地名は変わっていますが、現在の日野キャンパスにあたります。

機械工学科、生産機械工学科、電気電子工学科、航空機体工学科、航空原動機工学科、生産管理学科(定員は1学年それぞれ40)からなっていました。大まかに言って、航空系の2学科が「東京都立航空工業短期大学」、それ以外の4学科が「東京都立工業短期大学」の流れをくむといってよいでしょう。

設立の経緯と沿革

この2短大の移転・合併は、かつてそれぞれが同一キャンパス内に都立の工業高等専門学校を設置した際、当時の文部省から「施設を高専の専用にする」ように指導を受けたこと、また併存に不都合が生じたことがきっかけとなったようです。

こうして、1965年には校地を取得、1970年に校舎や実験棟の建設を開始するなどの準備を経て開学、307名の入学生を迎えました。

1980年には、生産機械工学科を精密機械工学科へ、また生産管理学科を管理工学科へとそれぞれ改名しています。

ここで当時のキャンパスの様子を見てみましょう。1982年当時の様子を、キービジュアルにしました。今の様子と見比べると、体育館が写真を見比べる限りそのまま使用されているのと、クラブ棟が学生会館になっているというのはなんとなく面影があるでしょうか。なお、図書館が予定地となっていますが、当時図書室が本館の一部スペースに限られていたところを、独立棟を設置する計画をしていた段階にあったことが理由となります。その建物は現在と異なっていますが、予定地自体は現在の図書館所在地と似ており、これも面影があるといってもよいかもしれません。とはいえ、全体を見ると、ずいぶん様子が変わっていることがわかると思います。

4年制大学への昇格運動

この工科短大の悲願といえるのが、4年制大学への昇格でした。すでに2短大の合併前の1970年頃から、それぞれの短大の中で4年制工科大学への移行の請願などが出されていました。その流れで、開学4年後にあたる765月には、早くも「工科大学への転換に関する基本方針」が工科短大教授会で決定されており、4年制大学への転換へ進むことになります。

この4年制大学への移行の動きは、①教育期間2年で工業高等教育を行うことの困難さ、②実践的技術者の育成という面での教育課程の限界、③企業や高校との連携の困難さ、④学生の4年制大学志向の強さ、⑤当時の全国的な工業系短大の4年制大学および高専への移行の流れ、などに対応するものでした。

さらに継続して学内での検討が進む中で、東京都は1982年に東京都長期計画の中で、「都立大学との合併を含め、四年制大学への移行を検討する」とし、方向が決定しました。その後東京都総務局に調査委員会を設置、検討が進められ、翌83年には①工科短大を4年制大学へ移行する、②校地や人員などの追加投資を行わずに単科大学とする、という報告が出されました。この追加投資を行わない、ということができたのは、実は開学当初から4年制大学を見据えた設備設計が行われていたから、ということのようです。なお、旧都立大の工学部に類似学科が存在すること、旧都立大が目黒から多摩への移転を計画中だったことも念頭に置いた議論がなされたそうです。

こうして成立したのが、東京都立科学技術大学だったのです。

 

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