都の”トップダウン”方式

200111月、都立の4大学の改革案である「東京都大学改革大綱」(以下大綱)が策定されました。では、この「大綱」に基づいた「改革」はどのように進んだのでしょうか。

「大綱」に基づく作業

2002年以降、都立の4大学では「大綱」をもとに、都側の関係者(教育長、大学管理本部長、大学管理部長)と、大学側の関係者(旧東京都立大学・科学技術大学・保健科学大学・都立短期大学の各学長、なお旧都立大は総長と呼称)からなる「都立新大学設立準備委員会」を設置、実現のための詳細設計が検討され、2005年度の新大学開学にむけて準備が進められました。ここで重要なのは、この時点では、都側と大学側が対立はありながらも協議(荻上紘一総長曰く「綱引き的共同作業」)しながら準備を進めていた、という点です。

石原都政による不穏な動き

しかし、旧東京都立大学において2002年度まで人文学部長、2003年度からは総長を務めた茂木俊彦氏は著書の中で、「「改革大綱」の具体化に関して知事周辺からストップがかかっているのではないか。二〇〇二年の年末までには、そんな情報が都立大学にもかなりたしかなものとして伝わってきた」と述べています。その動きが具体化したのが、翌2003年のことでした、61日に大学管理本部長に就任したばかりの山口一久氏が茂木総長(当時)のもとを訪れ、「「改革大綱」を総点検している」と述べたといいます。

破棄された「大綱」

そして同年81日、東京都の大学管理本部は都立3大学1短大の総長・学長を招集し、その場で山口本部長は、①都・大学の協議の廃止と管理本部主導の新たな検討組織設置、②「大綱」の破棄、③都立四大学の廃止と都市教養学部・都市環境学部・システムデザイン学部・保健福祉学部(のちの健康福祉学部)4学部からなる新大学の新設などを通告しました。また直後に石原慎太郎東京都知事(当時)は記者会見を行い、「都立の新しい大学の構想について」を発表しました。

「都立の新しい大学の構想について」

この「都立の新しい大学の構想について」は、20202月現在、インターネットアーカイブWayback Machineで、完全ではないものの閲覧できます

その中で「新しい大学の構想」には、「大都市の現場に立脚した教育研究」に取り組むとして、①都市環境の向上、②ダイナミックな産業構造を持つ高度な知的社会の構築、③活力ある長寿社会の実現、がキーワードとして挙げられています。これは文言こそ異なりますが、その意味するところは「大綱」でも述べられていた「教育研究の重点化による東京への貢献」と同等と捉えられます。

構想を具体的に進める取り組みとしては、①現代に適合した人間教育のための全寮制、②大学の使命に対応した学部構成、③都心方面へのキャンパス展開の検討、④「選択と評価」による新しい教育システムの導入「単位バンク(仮称)」、の4つが挙げられています。このうち、①の全寮制は「大綱」段階では検討とされていたものが具体化した形、③の都心キャンパスについては何を意味するかは不明確ですが、専門職大学院を都心キャンパスで、という話は「大綱」に掲載されています。一方で20027月に、23区内において大学新設を制限していた「工業等制限法」が廃止されたため、学部キャンパスの新設の構想がなされた可能性もあります。

大きく変わったのは②の学部構成で、初めて都市教養学部・都市環境学部・システムデザイン学部、という3学部が出てきました。また、④の「単位バンク」とは、他大学の講義を卒業単位として半分程度まで認定する、という内容です。その点、単位互換制度の「強化」との評価もできなくはありませんが、あえて別制度として記されていること、互換ではないことなどから、新たな制度と捉えたほうがよいでしょう。

「新構想」への批判とその本質

さて、200381日に行われたこの通告と発表は、大学内において強い批判を浴びました。「単位バンク」などの内容に批判があったという点もありますが、そもそもこれらの内容は、都と大学とが協議して作成した「大綱」を破棄し、大学には知らされないまま都庁の内部で検討されてきたものであったことから、批判の本質は東京都によるトップダウン方式”へのものと捉えられます。

このトップダウン方式はより明確化し、例えば8月下旬東京都は新大学設立のため、「教学準備委員会」を設置することとしました。これには、科技大・保科大の学長、旧都立大の学部長らが参加したものの、大学の代表ではなく、旧大学を知る「個人」としての参加であり、大学改革についての意見を求めるものではない、というものでした。

ではその後、この「新大学設立」とそれに対する反対運動はどのように展開してくのでしょうか。別稿に続きます。

 

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