本稿では、前稿に続いて、「大綱」の破棄以降、新大学開学までの経緯を概観します。なお、一連の流れを本稿では以下のようにまとめましたが、その他にも様々な見方があるため、文末に主な関連文献を紹介します。
総長による批判声明の発表
2003年8月1日に通告された、「大綱」の破棄、都と大学との協議体制の廃止に象徴される”トップダウン方式”ですが、これには多くの批判が上がり、また学内では、大学としてどのように対応するかを問う声も上がりました。
これを受け、茂木俊彦東京都立大学総長(当時、以下同じ)は、学内の部長会、評議会に諮り、「新大学設立準備体制の速やかな再構築を求める」とする総長声明を10月7日に学内に掲示しました。内容としては、東京都による一方的な決定を批判し、大学と都との間で自由闊達な議論を行うべきとしたものでした。これは大学総長が設置者を批判するという点で多くの反響を呼び、マスコミにも多く取り上げられました。
さまざまな学内での立場
ところで批判の声が上がったといっても、旧東京都立大学内部が一致団結して猛反発、ということではなく、それには温度差がありました。
最も強硬に反対したとされるのが人文学部で、総長声明よりも早い9月25日に「東京都立大学人文学部抗議声明」を発表、また10月16日には人文学部教員を中心に「開かれた大学改革を求める会」を結成しています。人文学部がこのように反対したのは、半数近い教員の削減が行われる可能性が非常に高かった=教育環境の確保が難しくなると予想された事が、一因にあるでしょう。
一方で経済学部教授であった戸田裕之氏によると、経済学部では賛否が分かれたようです。経済学部は大まかに分けて近代経済学、マルクス経済学、経営学・会計学の3グループに分かれていましたが、このうち近代経済学のグループは批判的で、他は協力的だったとされています。なお、当時の経済学部はこの2者の間での分断が顕著で、近経グループの戸田氏は上記グループを含めて「首大就任者に対する軽蔑」を述べる一方、経済学部の他グループからは、「近経が水面下で管理本部と交渉してる」との憶測を持たれていたたようです。この憶測の当否は別として、少なくとも同僚に憶測を持つ/持たれるという時点で、両者の分断はわかります。
また、批判の声は教員だけでなく、学生・院生にもあったことは言うまでもありません。彼らが学んでいた大学が廃止され、新大学に設置される学部も旧来とは変わるということは、学ぶ権利が守られるのか、という不安を与えるもので、当然の反応といえるでしょう。
活発化する反対運動
このように、学内でもさまざまな立場や考えがあったものの、反対運動はさらに活発となり、2003年11月1日の大学祭では、「廃止して良いのか?都立大学!!」というシンポジウムが開かれました。その後も12月26日に東京都立大学理学研究科・工学研究科,東京都立科学技術大学工学研究科教員110名による声明、2004年1月21日には 「4大学教員の声明」など、批判的な声明は断続的に出されています。
一方大学管理本部は2003年10月31日に学内に掲示を行い、それには2005年度に設置する公立大学法人は2010年度まで4大学を設置運営すること、学生の在学期間はA類B類(昼夜)問わず10年度末までとすることとし、また旧大学の存続期間と新大学の発足の時間経過も図示されました。またほぼ同時期に、教員は2005年度以降、本務先を新旧いずれとしてもかまわず、また旧大学を選んだ場合でもいつでも新大学に移ることができる、とされました。
この掲示等には批判の鎮静化を図る意図があったようですが、それは奏功せず、法学部をはじめとした教員の流出につながっていきました。すると、これを受けてか大学管理本部は、2004年2月上旬、「「首都大学東京」就任承諾にあたっての意思確認書の提出について」という文書と「意思確認書」を全教員に送付、さらに3月9日には「大学管理本部見解」という文書を大学に送付するなど圧力を強めました。特にこの「大学管理本部見解」は「改革である以上、現大学との対話、協議に基づく妥協はありえない」などと述べたものでした。
妥協点の模索と新大学設立
一方で、2005年に新大学設立ということは決定事項であったため、都側の特に大学管理本部は圧力のみ、大学側の特に執行部は反対のみ、というわけにはいかず、ある程度の妥協点を探っていく必要がありました。
まずその第一歩は、2004年2月上旬、法人の理事長予定者であった高橋宏氏と茂木総長らが会談したことでした。また3月上旬には、大学管理本部から妥協点を探る動きがあったといい、3月7日には大学管理本部長、学長予定者らと旧都立大学側とで会議が行われる予定だったといいます。これらの動きは、前述の「大学管理本部見解」で一度御破算となりましたが、同月23日に再度、4大学の学長、大学管理本部長、理事長予定者による懇談会が開催され、大学と都とが協議を行うことが確認されました。
このように、茂木総長は本部側との協議を求め続けながら、大学改革に協力するという姿勢を示しました。この姿勢は、新大学への「就任承諾書」の提出という形で教員からは概ね理解を得ながらも、経済学部では前述の近代経済史グループの教員が1名を除き辞職、経済学コースが設置されなくなるなど、依然学内に反発の声は残りました。
このような問題を抱えながらも、2004年4月28日、「首都大学東京」の設置認可申請書は提出されました。前述の教員の辞職も響いて手続きは遅れ、9月21日に認可、2005年4月に「首都大学東京」は開学を迎えました。
一方で旧東京都立大学をはじめとした4大学は、この時点では閉学されておらず、短大は2007年度まで、その他3大学は2010年度まで、すなわち2011年3月まで設置されており、この期間は旧大学と首都大が並行して存在していた期間でした。
教員の分断
さて、開学以降もこれら一連の経緯は尾を引きました。それは特に教員間、さらに言えば旧都立大出身教員から他の3大学出身教員へという形で顕著だったようです。
その意識が端的に表れているのが、岡本順治氏(元人文学部助教授)の文章にある、科学技術大学に関して「組合から伝わってくる僅かな情報」をもとに記した、「一方的な「思いつき」による科学技術大学中心の「改革」案(以後「8・1首大構想」と略)を発表した。」という一文でしょう。これは、当の元科技大教員(匿名)からの「8・1改革案を8月1日以前に知らされたり、計画立案に参画はしておりません」というコメントを受けて多少修正されましたが、この文言は、自らを被害者とおく、それ自体は間違いではないものの、それに加えて科技大を「僅かな情報」を根拠に加害者と断定したものでした。
実際のところ岡本氏は新大学には参加せずに辞職をしていますが、参加した教員の間にも似た空気は漂っていたようで、例えば旧東京都立短期大学の教員は、首都大学東京開学後は各学部などに分散して配属されましたが、配属先の教授会では、通常ならば学科やコース等の単位でまとまって着席するところ、旧都立大の教員により隅の座席に追いやられるといったことが起きたといいます。これが事実であれば、先述の例と同じように、明らかに対象を間違えていると言わざるを得ません。
2018年、名称変更に関する説明会の中で上野淳学長は、「各大学の文化の違いを乗り越えてきた」という趣旨のことを述べました。この「文化の違い」が何を指すのか、具体的な話はありませんでしたが、もしも、開学当初にそのようなことがあり、15年の時を経て現在では解消された、という意味なのであれば、それは喜ばしい事といえるでしょう。
関連文献
書籍
- 東京都立大学・短期大学教職員組合・新首都圏ネットワーク編(2004)『都立大学はどうなる』花伝社.
- 茂木俊彦(2005)『都立大学に何が起きたのか』(岩波ブックレットNo660)岩波書店.
- 都立の大学を考える都民の会(2006)『世界のどこにもない大学』花伝社.
webページ
- 首大非就任者の会(2020年2月23日閲覧)
- 首大 またはクビ大 あるいは首都大学東京 についての個人的見解(webアーカイブ、2020年2月23日閲覧)
- 事務屋のひとり言(2020年2月23日閲覧)