毎年7月に行われる、運動部の大阪府立大学との定期戦が「府大戰」です。いうまでもなく旧東京都立大学の行事を引き継いだものですが、これは何をきっかけに行われたのでしょうか。また、なぜ7月に行われるのでしょうか。
第一回大会開催とその発端
旧東京都立大学から初めての卒業生が誕生した1953年の9月、金沢大学において全国体育研究協議会が開催され、当時旧都立大の教員だった中村誠氏が出席しました。この目的の一つに、新制大学で必須科目となった「体育の授業の成果を他大学と試しあう機会」を作ることがありました。それに答えたのが、浪速大学、現在の大阪府立大学の仲至誠氏で、この話をお互いに大学へ持ち帰ることとなりました。
このように、体育による交流を持ち掛けたのは旧都立大側でしたが、これを具体化させたのは当時の浪速大学側からの動きでした。10月30日、浪速大学では文化祭が行われていましたが、そこで「運動部による定期戦」という話が運動部の学生に明かされました。これを受けて11月5日には学生間で交渉することを決定、7日には夜行列車で2名の学生が目黒に向けて出発しました。
11月8日、当時の目黒キャンパスを、その浪速大学の学生2名が訪問、「運動部による定期戦」についての相談を持ちかけました。これは旧都立大の学生には寝耳に水の話だったようです。これは結果としてアポなしだった、ということが一点、もう一点は前述の通り、もともとは「体育の授業の成果を他大学と試しあう機会」だったので、旧都立大内部、特に運動部ではさほど話は広まっていなかった、ということがあげられるようです。
とはいえ返答しないわけにもいかず、運動部の幹部、すなわち運動部連合を中心にが2日間協議した結果、定期戦開催に向けて動き出すことになりました。
すると早速11月21日、その定期戦の第一回が旧都立大で開催されたのでした。種目はサッカー、バスケ、バレー、硬軟のテニス、卓球、柔道の7種目、併せて200名弱の参加でしたが、これは準備不足のため無理なく賄える種目にしたとのことです。結果は旧都立大の勝利はバレーボールのみで、1勝6敗の成績だったそうですが、兎に角、こうして第一回目の「府大戰」が開催されました。浪速大学の学生が話を聞いてから、わずか3週間余りの出来事でした。
定期開催にむけて
翌年には第二回大会が開催されましたが、今度は旧都立大が大阪に遠征することになりました。そこで時期が問題となり、前年のように11月ではなく、当時の夏休み初日に当たる七夕のころに開催する、ということがここで決められました。首都大成立後にも引き継がれる府大戰の仕組みが、ここで整ってきたようです。
当時の移動手段は鈍行の夜行列車で、一晩かけての移動だったそうですが、中には、いろいろと羽目を外す者もいたようで、大声で談笑したり、応援歌を合唱したり、太鼓をたたいたり、宴会を始めたり、という状態だったそうです。到着直後、朝のラッシュの時間帯に駅のホームで行われたというエール交換含め、おおらかな時代だった、といえるかもしれません。
試合の日程は当初は2日間で、朝の到着後にレセプションがあり、午後に練習、翌日の開会式の後に試合があり、閉会式・親睦会をへて帰るという日程でした。とはいえ順次競技種目が増え、試合を1日で行うことが難しくなると、5回大会からは初日から試合を始めることになり、また9回大会ごろから移動を一日前倒しする形が増え、11回大会以降は2泊3日の現在のスケジュールが定着したようです。
このように、2泊3日と1日増えたのは、前述のように競技が増えたのも理由ではありますが、遠征校は勝てないというジンクスが続いたからという理由もありました。というのも、移動直後の試合では疲労で不利、ということがあったそうで、1泊休んでから、という体制が考えられたといいます。
またこの「府大戰」は、第4回大会から正式な定期戦として両大学から認められ、さらに第8回からは優勝杯争奪戦の形となりました。
資金獲得と体育会創設
さて、遠征するには当然お金がかかります。どうするか、自治会らと交渉して予算の増額を実現したり、個人のアルバイト等で遠征費をねん出したりと、いろいろと苦労があったようです。そのほかにも、1956年の第4回大会では、深沢キャンパスのテニスコートづくりを請け負い、大学から資金援助を得た、という話もあります。10回大会になるとダンスパーティーを開催、資金を獲得したとありますが、運動部員に販売ノルマが課せられるなどの問題もあり、継続はされなかったそうです。
このとき、運動部連合は自治会のもとで自治会費を配分されていましたが、それに頼ることなく直接に活動資金を得たい=体育会費を全学から独自に徴収したい、という点から独立を目指すことになりました。この独立の話は、学生の分断を危惧した反対意見が多く実現しませんでしたが、それでも1964年、自治会傘下のもと体育会が成立しました。
とはいえ、資金獲得という意味では独立ではなく、自治会費の配分に頼ることに変わりはなかったようです。そのため、後のことですが1995年に自治会が一時崩壊、機能不全に陥ると、体育会は独自に会費を徴収したこともありましたし、また2000年ごろに一部団体による自治会費納入妨害活動が起きると、分配予算が例年の3割ほどに落ち込み、移動に支障が出るなど、難しい状況に陥りました。
運営の苦労ー会場の確保
以前の記事で紹介しました、目黒キャンパス。こちらはその時にも記したように、非常に狭いキャンパスでした。当然、運動施設は充実しておらず、定期戦を行うにしてもその会場の確保はつねに課題となっていたようです。
1971年当時の状況を例に挙げると、陸上、サッカー、ラグビー兼用のグラウンドが1つ、テニスコート4面、弓道場1つ、バレーコート2面、ハンドボールコート1面、体育館は1Fにバスケットボールコート1面の広さ、2Fに柔道場、剣道場があり、卓球部は剣道場兼用、という状況だったそうで、さらにこれは大学専有ではなく、附属高校と兼用だったといいます。
このため府大戰の会場としては、深沢キャンパスに隣接した駒澤オリンピック公園、駒澤競技場の施設をメインとして使用することが常だったようです。それでも毎年確保することができたわけではなく、目黒体育館や近隣の他大学の施設をその都度借りるなどの苦労が続きました。
さらにこの運動設備の不十分さは、普段の練習にも影響を及ぼしたのか、設備の整った大阪府立大学に大きく負け越す時代が長く続いた、ともいいます。
このような状況が改善されるのは、1991年の南大沢移転を待たなければなりませんでした。
大学紛争の影響
1969年ごろは、以前も紹介しました大学紛争が活発になった時期でした。この年の府大戰は第17回大会で、東京での開催が予定されていました。これについて、体育会内では学生運動に参加すべきとの意見もあったようですが、基本的には府大戰の開催が支持され、準備を進めていました。
とはいえその準備は困難を極め、硬式テニスや硬軟の野球の会場としての利用を予定していた東京工業大学が大学封鎖になるなど、多くの障害を乗り越え、なんとか整えた、という状況だったようです。
ところが当時の大阪府立大学でも大学紛争が活発化しており、最終的には遠征が不可能という連絡が入り、この年の府大戰は中止とせざるを得なくなりました。
翌年以降は、無事に開催できるようになったようですが(70年は大阪万博と重なり、11月開催)、その後も72年の第20回大会の結団式では、当時の團勝磨総長が拉致されそうになるのを体育会の学生が守り抜いた、という事件も起こっています。
第25回記念大会
1977年に開催された第25回大会は、名前の通り記念大会となりました。そのため、まずは応援団旗の新調と、各種目別記念トロフィーの制作がなされました。
さらに、この大会から、跡見女子短期大学バトン部に応援を依頼することになりました。これはもともと、25周年記念の新企画として他大学のバトン部に出演を依頼することとなり、50音順にかけた2番目が跡見女子短期大学だったそうです。この交流は1995年の43回大会まで続きました。
この大会の閉会式後、駒沢公園から目黒キャンパスまでパレードが行われました。これは跡見女子短期大学のバトントワラーを先頭に、ブラスバンド、両学応援団、選手団という隊列で、パトカーの先導などもあったといいます。
これは、駒澤オリンピック公園の中央広場から駒澤通りを東へ向かい、途中で南に折れて旧都立大の通用門(現在の目黒区民キャンパス公園とパーシモンホールの境目付近)に至るというルートを通ったようです。
キャンパス移転と府大戰のその後
1991年、旧都立大は狭隘な目黒・深沢から南大沢へと移転しました。それに伴い、運動部施設も大幅に拡充されたため、一部競技を除いておおむねキャンパス内で開催することができるようになりました。
第47回大会が開催された1999年は、ともに1949年開学の両大学の50周年にあたりました。その記念として教職員らによるOB府大戰が行われたといいます。
2002年の第50回の記念大会は大阪府立大学で行われましたが、ここでひときわ目立ったのは旧都立大側の女性応援団長でした。これは50年の歴史で両学を通じて初めてのことで、当時の大阪府立大学の南努学長は、「正直驚かされ、時代の趨勢を感じさせられました」と記しています。
府大戰は、このようなさまざまな出来事や変化を経ながら、旧都立大の閉学後も首都大に引き継がれています。今後はどのような展開が待ち受けているのでしょうか。
参考文献