1970年前後、旧東京都立大学では学生運動が盛んにおこなわれていました。その中で最大の出来事といってもよいかもしれません、1969年に起こった、目黒キャンパスの封鎖についてみてみましょう。

封鎖前夜

旧東京都立大学では19685月ごろ、新学生ホールの建設と旧学生ホールの取り壊しをめぐり、学生間ですでに対立が起きていました。この対立は大学側・学生自治会と、ホール取り壊しで部室が不足すると主張する学生との間で起きており、翌691月には後者が工事現場を占拠、また当時の学生部長を軟禁する、などの事件もおきました。挙句の果てには、武装した学外者が工事現場に向かっているとの情報から教職員が夕方に緊急招集され、校舎防衛のためバリケードを築くということまで起こりました。

参考:自衛官受験拒否問題

「大学立法」とキャンパス封鎖の始まり

このような大学紛争(学生運動による大学施設の占拠など)は旧東京都立大学だけの話ではなく、同年には大学紛争への対応として、「大学の運営に関する臨時措置法」通称「大学立法」が国会で制定されました。これは、大学紛争が起こった場合には、学長による一定期間の学部休止を認める、などの内容からなっていました。

教授会、教職員組合、A類目黒学生自治会らは、「大学の自治を侵す、紛争の激化を招く」などとして即座にこれに反対声明を出し、とくに自治会は臨時学生大会において1週間超のストライキを決定しています。一方で、これとは別に「ストライキ実行委員会」とする学生らが別途大学側との団体交渉を求めて総長室を占拠、またA類自治会へ「無期限ストライキ」を提案し、これが否決されると自治会と大学側との団体交渉を妨害、さらに628日には目黒キャンパスのA棟と呼ばれる校舎をバリケードで封鎖するに至りました。安田講堂封鎖などで有名な大学封鎖が、旧都立大でも起こっていたのです。

大学側の対応

この封鎖に対して大学側は、「平和的手段による封鎖解除」を宣言しました。これは警察に頼らず、また実力によらず=対話での解決を目指す、としたものでした。これは、団体交渉は本来自治会と行うべきもので、封鎖学生との団交は学生自治を侵す、との観点に立ったものであり、教職員集会でもこの方針は指示されましたが、一方で助教会有志や一部教員からは封鎖学生の要求に応じよとの意見も出たようです。

とはいえ、封鎖解除に向けての有効な手段はなく、7月には学生間で投石の応酬が起き、また自治会による学生大会には火炎瓶が投げつけられるなど、衝突の激しさは増すばかりでした。当初は目黒キャンパスのA棟のみだった封鎖も、9月には目黒キャンパス全体が封鎖されるに至りました。この状況に、キャンパスの近隣住民からは被害を恐れる声が上がるほどでした。

当然ながら授業ができる状態ではなく、多数の学生は単位取得への不安から封鎖解除を望んでいました。924日にA類目黒学生自治会が学生大会を東大駒場キャンパスで開き、大学側へ封鎖の解除と大学民主化を要求すると、1023日には深沢キャンパスにおいて教職員集会が開かれ、封鎖学生へ退去を呼びかけました。これでも学生側が退去しなかったため、同月29日には大学の要請で機動隊がキャンパスに入り、ようやく封鎖は解除、授業も11月11日に再開されました。

結果としてこの封鎖は4か月以上にも及びました。この期間での施設・備品関係の被害は大きく、その額は6千万円を越えていたとも言います。一方で機動隊の投入には学内からも批判が起こり、人文学部の助教授の一人は抗議声明を出すだけでなく以後2年もの間授業を拒否し、懲戒免職されるなどの影響も残りました。

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