旧東京都立大学における自衛官受験拒否問題(前編)―経緯と学内の反応

自衛官受験拒否問題-なかなか刺激的な文言ですが、これはかつての旧東京都立大学で実際に起こった問題です。どのような問題だったのか、まずはその経緯を見てみましょう。

事の発端

19692月、旧東京都立大学B類(夜間)工学部電気科の入試へ、自衛官3名が出願しました。これを入試事務補助員を務めていたアルバイト学生が発見し、広く他の学生へ伝えました。また同月12日には当時の教務部事務室の調査によってその事実が確認され、入試管理会に報告されました。

学生・教員の反発

これを受けて早速213日、A類目黒学生自治会臨時大会が行われました。実体としては定数不足で成立しなかったものの、自衛官受験拒否を決議するための臨時大会でした。翌14日には、岡本哲治入試管理委員長(当時経済学部教授)が深沢学生自治会の学生と会見、自治会側が「自衛官が個人として出願していることを確認する手続きを取ってくれれば納得する」と述べたため、大学側は出願した自衛官へ問い合わせ、個人としての出願であることを確認しています。それでも225日、学生自治会からは團勝磨総長(当時)へ、自衛官の受験と入学反対について申し入れが行われました。

また学生からだけでなく、教員有志からも受験拒否の声明が出されていました。特に、拒否派の急先鋒だったとされるのが人文学部教授会でした。関嘉彦氏(当時経済学部教授)の回想によると、「憲法違反である自衛官に入学試験を受験させるなら、教授会は入試業務に協力しない」ことを決議したほどだったそうです。

このような受験拒否を支持する意見は、主に以下のような理由に基づいていました。すなわち、①違憲である自衛官には被教育権をはじめとした憲法の保護を要求する権利がない、②24時間勤務体制にある自衛官は憲法下で教育の機会均等を保証された個人にはあたらない、③自衛官の入学は軍事研究につながる、などでした。このあたりの考え方については、受験拒否の視点から伊藤敬一[1969]、受験支持の視点から岡本哲治a[1969]に詳しく記されています。

受験拒否の決定とその理由

このような中で、入試前日である32日、大学側は自衛官の受験を認めないことを決定しました。これをうけ、岡本入試管理委員長は同日夜から翌日=入試当日の朝にかけて自衛官へ事情説明と謝罪とを行ったそうです。なお、この訪問について、伊藤敬一氏は「説得した」と記していますが、岡本哲治氏本人は岡本哲司b[1969]において「説得の言葉は一言も述べていない」「決定の内容を伝え、事情を説明し、『申しわけありません』と陳謝した」ものであると述べています。

さて、この一連の騒動で大学が受験拒否の理由として挙げたのは、「自衛官の受験を認めると他の生徒の受験が平穏に行われない可能性がある」ことでした。これには、当時の学内状況が関係していました。当時、新学生ホールの建設と旧ホールの取り壊しをめぐり、大学執行部と交渉してきた学生自治会と、反自治会の学生との間で対立が発生しており、また工事現場を封鎖するなどの実力行使も行われるなど、学内は非常に緊迫した状況だったのです。また実際に、学生側からは、自衛官の受験を認めるならば入学試験を妨害する、というような言説もあったようです。加えて学生だけでなく前述のように一部教員も、入試業務に協力しない意思を持っていたとされています。この状況の中で仮に受験を認めると、正常な入試を行いえない、という判断が働いたのでした。

この点、必ずしも受験拒否に賛同していなかった教員の中には、入試を円滑に行うという観点から受験拒否を支持したケースもあったようです。

学内でも分かれた賛否

この決定について、岡本哲治入試管理委員長は岡本哲治a[1969]の中で、「自衛官が個人として出願しているのである限り(中略)、その受験資格を認めねばならない」と述べています。この岡本委員長は、入試業務が終了した331日、「責任上居れない」として大学へ辞表を提出しています(受理は930日とみられる)。また前述の関嘉彦教授は岡本委員長とともに辞職する構えでしたが、694月から経済学部長を務めることになっていたこともありしばらく在職したものの、大学立法等の問題もあって7月に辞表を出し、930日付で退職しています(講義やゼミは非常勤講師として年度末まで継続)。関氏の回想によるとさらに、同じく経済学部の稲田献一教授も辞職したということです。

とはいえ、受験拒否への反対派は学内では少数派だったといってよいでしょう。実際、学内の全5学部の教授会が3月6日に行われ、この決定の支持を確認しています。また、教授会以外に学生自治会や教職員組合なども決定の支持を表明しました。

こうして1969年3月の旧東京都立大学の入学試験において、自衛官3名の受験は拒否されたのでした。

纏まらなかった将来的対応

一方で、これはあくまで「緊急避難的」な措置であったため、自衛官受験の将来の問題については課題が残りました。その解決のため、学内では「自衛官問題委員会」を組織、学内の意見分布の調査などを検討しましたが、6回の会合ののちに夏季休暇を迎え、そのうちに大学紛争が激化したためか、結局具体的成果を得ることはありませんでした。

 

このような経緯をたどり、結局受験を認めなかった自衛官受験拒否問題ですが、これは当然学外でも話題になりました。後編では、この学外の反応について、東京都と国とを取り上げます。

参考文献

  • 伊藤敬一(1969)「都立大学における自衛官受験拒否のたたかい」『日本の科学者』vol.3 no.6.
  • 岡本哲治(1969a)「自衛官入学資格問題」『自由』vol.11 no.7.
  • 岡本哲治(1969b)「四・一八法務局勧告」『自由』vol.11 no.8.
  • 関嘉彦(1998)『私と民主社会主義-天命のままに八十余年-』近代文芸社.

 

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