前稿では、1990年代までの大学を取り巻く状況を取り上げ、各大学も改革の必要性を認識していたこと、改革が青島幸男都政のなかで進められようとしていたこと、を見てきました。では、青島都政の後を受けて1999年4月より始まった石原慎太郎都政の中で、「改革」はどのように展開するのでしょうか。
石原都政での大学改革と大学側の対応
石原慎太郎都政が始まった翌年の2000年、「東京都立大学改革計画2000」がまとめられたのと同じ時期に、都知事から「都立4大学を束ね、名前も変え、新しい大学を作る」という発言がありました。すなわち、ここまでは各大学における個別の改革だったものが、ここで初めて、旧都立の4大学を廃止しての新大学設置、という話が出てきたわけです。さらに3月には、大学教育や入試の改革、産学連携などといった要望が、知事より出されました。
これを受けて旧東京都立大学では、2000年2月にまとめた「東京都立大学改革計画2000」を再検討、7月に「新・東京都立大学改革計画2000」をまとめました。ただしある意味当然ながら、大学個別の改革にとどまっており、4大学全体を通じたものではありませんでした。
新・東京都立大学改革計画2000
では、この「新・東京都立大学改革計画2000」について見てみましょう。旧東京都立大学の発行した自己点検・評価報告書「'2002 教育活動の改善 -評価を活かす-」によると、その大枠は以下のようなものでした。
理念 |
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目標・課題 |
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具体像 |
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目を引くのは、旧東京都立大学の特色の一つであったB類制度の見直しが、この時点ですでに明記されていることでしょう。キャンパスが都心部の目黒から南大沢へと移転したことで、都心で働く勤労学生の通学が難しくなったことなどから、需要の低下が指摘されていたことが関係するでしょうか。
4大学を所管する組織の設置
では同時期の東京都の動きを見てみましょう。2000年8月、東京都は教育庁に「大学等改革担当」を設置しました。これは前述の通り、改革が都立の4大学全体に及ぶことになったため、4大学全体を所管する組織が新たに必要となったことによります。その後、教育長と各大学との間で協議が行われ、翌2001年2月、「東京都大学改革基本方針」が策定されました。これは「新・東京都立大学改革計画2000」をさらに引き継いだうえで、新たに4大学の再編統合という視点が加わったもので、大学の法人化もその中に含まれています。
続いて3月には、東京都教育長や4大学学長からなる「東京都大学改革推進会議」が設置され、また7月には「大学管理本部」が設置されました。とくに大学管理本部は、それまで都庁内で都立大学事務局、総務局(科技大、短大)、衛生局(保科大)と分かれていた各大学の設置者を一元的にまとめ、大学改革を一体的に推進、また各大学の運営を効率化するために設置されたものでした。
さらに同じく2001年7月、大学管理本部の下に「大学改革運営諮問会議」が設置されました。これは大学改革に関する外部有識者の意見を聞くための組織として位置づけられており、会長として西澤潤一岩手県立大学長(当時、のち首都大学東京初代学長)、副会長には佐藤禎一日本学術振興会理事長(当時)が就任するなど、7名がメンバーとなっていました。これらの体制のもと、11月に策定されたのが、「東京都大学改革基本方針」を具体化した、「東京都大学改革大綱」でした。ではこの中身について、次回で触れていきます。