名称変更はどのように決まったか

2018824日、「首都大学東京」は202041日をもって「東京都立大学」と名称を変更することを発表しました。この経緯を追ってみましょう。なおここでは、法人は大学を運営する「公立大学法人 首都大学東京」、大学は「首都大学東京」を指し、大学側と記した場合には法人・大学両方を指すものとします。

東京都による決定

名称変更の発表の5か月ほど前の201846日午前9。東京都庁内の総務局長室で、総務局長、次長、総務部長ら6人の都職員が会議を行っていました。彼らの議題は、「首都大学東京の名称を変更する場合の想定スケジュールについて」。判明する限り、名称変更が議題に上った最初でした。16には「同年4月に学内で議論をはじめ、6月に学内で『名称変更について議論する』ことを決定、7月に知事が『東京都立大学に』とコメント、8月に正式発表」というスケジュールが決まりました。このポイントは、7月に知事がコメントする前に学内で議論が行われる、という点です。もちろんこれは都が決めたスケジュールに従って行われる議論となるので実質的な意味はありませんが、それでも学内での議論が先立っています。これについて会議では「知事のイニシアティブと学内の意思決定が一致した形で表出できる」と評価されています。

ところが2日後の418、前述のスケジュールは破棄されました。代わりのスケジュールは「7月に知事コメント、8月に学内で意思決定」というもので、ポイントだった知事コメント以前の学内での検討は削られています。これは明らかに「知事のイニシアティブ」を重視し、「学内の意思決定」を排除したものでした。また、この日の議題は「名称変更の想定スケジュール」とあり、「する場合の」という文言が落ちていることがわかります。さらに配布資料には「名称変更の時期 平成32年4月1日から」と明記されている点から、名称変更自体は事実上この時点で決定されていたと捉えなければなりません。こうして決定された新たなスケジュールは、52日に小池百合子東京都知事(当時)よって了承され、確定する事となりました。

大学側を"排除"

さて、上述のようにこの名称変更は東京都によって決定され、大学側の関与はありませんでしたが、これは以後も徹底されています。これが良くわかるのが625です。この日の11:00から都庁総務局長室において、総務局長以下都側の職員6名と大学法人側の職員4名で打ち合わせが行われました。この打ち合わせは、712日に予定される「都政改革本部会議」の内容が議題となっていました。先述した知事による7月のコメントとは、この「都政改革本部会議」での発言を指しています。にもかかわらず、この場では名称変更について大学側と検討することはありませんでした。

この打ち合わせは11:30で終了し、都の職員2名と大学法人の職員は退出しました。その5分後の11:35から、残った総務局長以下4名の都職員の間で再び会議が行われました。議題は「首都大学東京の名称変更想定スケジュール等について」であり、都政改革本部会議における知事の具体的なコメント内容、またそれを受けての理事長の発言案が決定されています。このように、東京都は大学名称の変更についてわざわざ法人の職員が退出した後に決定しており、7月12日以前に大学側の関与が一切なかったことが確認できます。

大学側の動きと置き去りにされた学生

こうして2018712日、「都政改革本部会議」の席上で小池都知事は、「かつてあった東京都立大学というのは、今は駅名で残っているだけでございますけれども、これも一つの考え方だと思いますけれども、いかがでしょうか」と、名称変更について言及しました。

これを受けて大学は部局毎に教員への意見聴取をしています。ただし、上野淳学長(当時)は「大学としての賛否を決定するものでは無い」とも述べています。これは、最終決定権があくまで法人にあるためです。その後、731日に大学は教育研究審議会を開催、教員の意見を集約しました。

一方、学生の意見はどのように扱われたのでしょうか。実は、大学からのアプローチは一切ありませんでした。学生自治会は727日に、学生の意見を反映すること、議論の時間的猶予を与えること、からなる要望書を法人へ提出、また817日には「自主的に」学生の意見を集約し、大学に提出しています。受け取った上野学長は、これをもって学生側の意見を聞いたとしました。この学生の意見は、学生が主体となったことからどうしても限界があり、学生全員に周知されたものではありませんでしたが、この点について上野学長は後に、「全学生から意見聴取する問題ではない」と述べています。

以上のような動きを経て822日、法人が開催した経営審議会において名称変更を決定しました。しかしながら、この決定に実質的意味はありませんでした。名称変更は東京都が主導していたということは見てきた通りで、また、法人決定より早い82日には、多羅尾副知事が名称変更について了承しており、変更はすでに既定路線でした。まさに合意なき決定だったと言えます。

足りない説明と混乱する学生

824日金曜日、大学は202041日からの名称変更、また土日を挟んだ27日月曜日に説明会を開催することを発表しました。説明会の開催は突然の発表だったにも関わらず、南大沢では150~200名程度が集まりましたが、夏休み中の教職員・学生が中心で、大きな影響を受ける卒業生の姿は、平日昼間の開催だったこともありほとんど見られませんでした。そのため、出席できなかった学生や教職員、卒業生へのフォローは急務でしたが、説明会概要の公開は2週間後の913、質疑応答部分に至っては928日と、遅れに遅れたものでした。この背景には、これに先立つ910日、有志が大学学長室へ説明会内容についての情報開示請求を行ったことがあり、大学側には積極的な説明の意思はなかったものと考えられます。

その後も、事情説明に対する大学側の消極的な態度は続きました。社会人の卒業生が出席可能な土日の説明会は、発表から一か月以上が経過した930日にようやく開かれましたが、この一回にとどまりました。また学内への説明会も、109日、172回行われたものの、校内放送など積極的なアナウンスはなされず、結果出席者も低調に終わりました。これら消極的な大学側の姿勢は、20203月現在になっても初回の説明会以外の質疑応答が公開されていないことからも明らかといえます。

このように、大学側が説明に消極的だったためか、学生には混乱も見られました。おりしも2018年に学部が再編成されたこともあり、例えば法学系(法学部)の場合、学生の所属は、

  • 首都大学東京 都市教養学部 法学系
  • 首都大学東京 法学部
  • 東京都立大学 都市教養学部法学系
  • 東京都立大学 法学部

4通りが考えられることになります。このうち、大学名は202041日を境に全学生が切り替わりますが、学部については入学時のものが卒業まで維持されます。これは名称変更について最も重要な点の一つでしたが、大学側の説明が不足していたことにより、自分の履歴書にどのように記載するのかわからない、という学生も散見されました。

 

このように、名称変更の一連の経緯を追うと、東京都が主導した名称変更であったこと、名称変更についての大学側は説明に消極的な姿勢を一貫して見せていたことがわかります。大学側が大学公式webページに公開した「首都大学東京の名称変更について」の中で述べた、「学生・卒業生など関係者の皆様にはしっかりとこれらの経緯について説明してまいります」という言葉が、むなしく響きます。

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