学生ホール取り壊しに関する反対運動、キャンパス封鎖と、1960年代末に旧東京都立大学において立て続けに起こったこの事件は、常に一部学生による暴力が関係していました。これはどのように解消したのでしょうか。
暴力事件とその沈静化
1971年6月、当時学生部長を務めていた飯塚鉄雄教授(理学部)は、「学習環境整備についての呼びかけ」「授業妨害についての協力の呼びかけ」を発表しました。これは、キャンパス封鎖解除から2年近く経過してなお、一部学生による暴力行為や授業妨害が続いていたためでした。それを証明するかのように、彼らはその直後から2か月にわたり大学の学生部長室を占拠し、キャンパス封鎖時と同様に大学の要請により機動隊が出動する事態となりました。また、同年9月には、一部学生の暴力により学生が失明するという事件も起きています。これを受けて團勝磨総長(当時)は「暴力排除の訴え」を発表しましたが、その後も事件は続き、翌70年2月には法学部における暴行事件、また72年には府大戰の結団式において團総長に暴行を加え、拉致しようとするなどの事件も起きています。そこで大学側は、この一連の暴力事件を起こした学生を同年10月8日付で退学処分としました。これでようやく、大学は平穏を取り戻すことになりました。
大学構成員の意思反映
これらの事件は、民主主義を標榜しながら暴力により主張を達成しようとする点で矛盾をはらんだものでしたが、一方で一連の運動に関連して、大学改革の必要性が意識されたことも事実でした。
その対応はキャンパス封鎖前後から始まっており、1969年9月、大学運営への学生参加の意義と問題点等を、「学生参加に関する現状」という報告にまとめ、同30日にはA類学生自治会と確認書を交わし、大学運営への学生・教職員の意思反映を課題としました。また同年10月に総長が発表した「大学改革の全般像」には、将来の展望、特徴などの項目と並び、大学の意思決定方法も含まれていました。
これらに象徴されるように、大学改革も具体的には大学の自治、さらには学生や教職員の意思反映という部分が根本と考えられていました。これを達成するための一つの方法として、例えばキャンパス封鎖が解かれる前日には、大学側と学生との間で討論集会が行われ、一般教育科目の改善について多くの意見が出たといいます。
このようにして生まれた、学生も大学構成員として大学運営に参加するという機運は、目黒キャンパス内での新学館建設、またその後のキャンパス移転における学生側への意見聴取などに生かされることになりました。