安保改定前夜
1960年代の大学の歴史は、安保改定反対運動(いわゆる60年安保闘争)を避けては通れません。旧東京都立大学でもそれに対する運動は活発に行われていました。1959年、社会党・共産党を中心に安保改定阻止国民会議が発足し、旧東京都立大学の教職員組合や学生自治会がそれに参加する中、同年10月には学内でも人文学部の竹内好教授らを中心に「安保の広場」を結成、改定反対の講演会や討論集会を行いました。翌年4月に入ると、教職員が国会請願に赴くなど、運動はさらに活発化していきました。
竹内教授の辞表提出
安保改定が採決・承認されたのは1960年5月19~20日ですが、その翌日、5月21日に竹内教授が辞表を提出しました。同辞表において竹内教授は「憲法の眼目の一つである議会主義が失われた」とし、「内閣総理大臣による憲法無視の状態の下で、東京都立大学教授の職に止まることは、公務員として憲法を尊重し擁護する旨の就職の際の誓約にそむき、かつ教育者としての良心にそむ」くと述べており、当時の岸信介内閣への痛烈な批判となっていました。
辞表提出に対する学内の動き
これをうけて、竹内教授の所属していた中国文学研究室や教職員組合らは、それぞれ岸内閣への批判と同教授の留任を求める声明を発表するなどしました。24日には学生自治会も同教授の復帰を要請する声明を出し、同日の定例学生大会では26日の授業放棄を決定しています。なおこの学生大会には件の竹内教授も登壇し、「本当の意味の民主主義を大いに伸ばしてもらいたい」と述べたそうです。また28日には矢野禾積総長(当時)が「(安保改定について)私は政府に抗議したい」「大学人として権力にたずさわっている者より一段高いところから批判を出すべき」「竹内君を失うのは、東京都立大学にとって非常な損害だから、あらゆる方策を講じて、それを阻止するつもりだ」などと述べています。当時の大学の基本スタンスは、安保改定を進めた政府を批判する竹内教授の考えに同意しつつ、留任を求めるというものだったことがわかります。その後も、竹内教授の所属していた人文学部教授会では、この辞職問題を一か月にわたり討議し、竹内教授に翻意を求めたものの、翻意は困難であるとして、最終的に6月27日に辞表を受理しました。
学外での安保改定反対運動-ハガチー事件
一方学外での動きとしては、1960年6月10日、ジェイムズ・ハガティ大統領報道官がアイゼンハワー大統領訪日の打ち合わせのため来日した際、羽田空港においてこれに反対する学生らに車を取り囲まれ、米軍ヘリで脱出するという事件がありました(ハガチー事件)。これには旧東京都立大学の学生自治会も参加しており、同月30日、当時の自治会委員長が同事件に関して不法監禁や公務執行妨害等の疑いで逮捕、7月22日に起訴されました。学生の所属していた法経学部はこれを不当逮捕とし、対策委員会を設置するなど、保釈実現に奔走しました。結果9月21日に保釈がなされたそうです。