旧東京都立大学時代、起訴された教員がいました。舞鶴事件と呼ばれる事件ですが、いったい何が起こり、その後どうなったのでしょうか。
舞鶴事件のあらまし
舞鶴事件が起こったのは終戦から間もない時期のことでした。当時舞鶴港では、終戦に伴い中国や韓国、シベリアなどから日本へ帰国する邦人の受け入れを行っていました。そのうち、中国からの帰国事業は1952年12月に始まり、この業務を日本赤十字社、日中友好協会、平和連絡会の3団体が行っていました。
そんな中、1953年5月、舞鶴港で行われた中国残留邦人引揚者の集会(第三次興安丸帰国者大会)において、厚生省引揚援護局の女子職員1名がメモを取っていたとし、出席者により数時間にわたり監禁・詰問される、という事件が発生しました。これが「舞鶴事件」と呼ばれる事件です。詰問されたこの職員は集会の責任者を告訴したため、2名が不法逮捕・監禁の罪名にて起訴されました。このうちのひとりが、平和連絡会の代表だった、阿部行蔵教授(人文学部 史学専攻)だったのです。
この裁判は10年近くにわたり行われました。学内有志(「阿部教授救援会」)は、この逮捕を言論・集会の自由を侵害するものとして同教授を支援、一審では無罪となったものの、二審では懲役3か月、執行猶予1年の有罪判決となり、上告も棄却されたことから、1964年12月に刑が確定しました。これにより、同教授は地方公務員法の規定により失職することになりました。
阿部教授復職に向けて
一方学内では、執行猶予期間が経過すれば罪は消え、元の資格を回復するとの考えから、期間後の阿部氏の復職を議論していました。期間経過直後の1966年1月、人文学部教授会は新規採用と同様の手続きで同氏の採用を審査しています。懲役刑を宣告された同氏を再採用する事の可否なども検討された結果、同年3月には採用を決定、それを受けて團勝磨総長(当時)は教授採用発令を東京都に申請しました。また人文学部は阿部「教授」による講義の予定も組んでいました。
ところが発令は4月の開講予定日にもなされませんでした。この阿部氏のケースにおいて、東京都の人事発令がなぜ遅れたのかは定かではありませんが、実は当時の学校教育法において、教員資格を失う場合に「禁こ以上の刑に処せられた者」とある一方で、その資格回復については記述がなかった事が、一つのハードルとなったようです。
そのようなこともあってか、7月に入っても依然として発令はなされず、人文学部は発令要請の決議文を都に提出、また團総長も東龍太郎東京都知事(当時)と会見、発令を要請しています。また学生もこれに関心を向けており、抗議活動を行っていました。これを受けて総長は、A類目黒学生自治会の代表との会見で、学生の意をくみながらも行動の自重を求めています。10月21日には全学集会が行われ、団結を表明する決議文が承認されました。11月には再び團総長が都知事と会見、改めて発令を求めました。その場で知事は「人事に関する大学自治は尊重する」としたうえで、発令が遅れた事情も了解してほしいと発言したといいます。
一方で大学では、阿部氏を一時的に非常勤講師として集中講義を実施、学生の単位取得を可能にすることにしましたが、A類目黒学生自治会は即時発令を求めて抗議、授業の放棄すらも行われています。
その後も、翌67年1月末には法学部教授会において阿部問題の対策委員会が設けられるなど阿部氏への教授発令を求める運動は続き、3月13日の総長主催で教職員・学生も参加した全学集会を経て、同月27日には再び総長が都知事と会談、大学側の採用の意思を伝えました。
このような動きを経て、1967年4月1日にようやく発令があり、阿部行蔵氏が教授に復職、大学自治の問題としてとらえられたこの問題は、終結しました。学内で復職が決定されてから、1年が経過していました。
なお、この阿部行蔵教授は、1971年より立川市長を務めましたが、任期中に自衛隊の立川移駐反対のため、自衛官の住民登録を拒否したことでも知られています。
参考文献