旧東京都立大学キャンパス移転の顛末

旧東京都立大学は1991年、それまでの目黒(八雲)・深沢キャンパスから南大沢へと移転しました。都心に近いことから、今でも「目黒が良かった」などの声も散見されますが、ではなぜ「遠い」南大沢へと移転したのでしょうか。当然ながら、重要な理由がありました。

※ 写真は鈴木俊一東京都知事(当時)の揮毫による移転記念の石碑。現在は南大沢キャンパス北門入ってすぐのところに所在しています

「狭い!」目黒と深沢からの移転要望

旧東京都立大学には目黒と深沢の2キャンパスが存在していましたが、合わせても約12haという校地の狭さが深刻な問題となり、1960年代後半には校地拡張・獲得の要望が強く起こりました。実際に1969年の予算要求に用地調査費を含めることが決定されています。なおこの段階では必ずしも移転ではなく、第二キャンパスの取得という形も含まれていました。ところがこの計画の障害となったのは、当時起こっていた大学紛争でした。これにより、都庁内での大学のイメージが悪く、実現性はありませんでした。

立川移転計画とそのとん挫

とはいえ校地獲得・移転の必要性は変わらず存在していたため、1973年に学内で校地問題検討委員会が設置され、①調布・立川などの米軍返還基地跡地、②多摩ニュータウン周辺、③秋川流域の3か所を移転の候補地として比較検討を進めました。翌74年には大学として校地移転の希望を美濃部亮吉東京都知事に報告しています。それからさらに検討を進めたところ、立川基地が1976年に返還予定であったことから、ここを候補地としての計画立案を行いました。当初は大学用地に114haもの広さを当てる計画を立てたものの、最終的には40haに落ち着きました。これは現在の自治大学校の敷地にあたります。ところが、82年になると地元の立川市から受け入れ反対の意思が示され、立川への移転計画はとん挫しました。

南大沢への移転計画

1983年、立川移転のとん挫を受けて、新たに移転候補地として、多摩ニュータウン西部(=由木平周辺、以後南大沢と記す)が挙げられました。ここは都有地で、土地の確保がしやすかったようです。さらに翌年の84年には予算に用地調査費が計上されるなど、具体化が進みました。この段階では、南大沢以外にも小山地区(現多摩境駅周辺か)が候補にはあったものの、815日には南大沢地区を中心にする方針が明らかになっています。

2倍の広さの新キャンパス計画

肝心の広さについては、6月の段階で南多摩新都市開発本部から36.45haの案が出されました。これは現在の南大沢キャンパスから本部棟付近や学生寮付近が外れた案でした。その後も交渉は続けられ、12月には約42.7ha(うち13haが自然保護地)と現在の南大沢キャンパスとほぼ同様の案となりました。移転前のキャンパスは目黒、深沢などを併せて約12.2haだったため、比較して3.5倍、自然保護地を除いても2.4倍の広さとなりました。

19861月には校舎の設計の委託契約が締結され、『都立大学新キャンパス整備基本計画(案)』が作られました。これに基づき、大学教職員により『東京都立大学移転計画基本構想(案)』がまとめられ、これが11月に鈴木俊一東京都知事の決定を受けました。

874月には基本設計が作られ、883月に実施設計が終了しています。これに基づき、6月の建設工事の入札を経て、829日に建設工事が着工されました。工事は19913月の竣工まで、約2年にわたり行われました。

校舎の延べ面積は、目黒キャンパスが約31,000㎡、深沢キャンパスが約37,000㎡だったことに比べ、およそ148,000㎡と、約2倍になりました。

なお各種費用については、1986年に作られた東京都立大学移転計画基本構想によると、建設費が506億円、用地費が419億円、設計費などで12億円の計937億円と概算されています。これに対し、目黒・深沢キャンパスの売却費は872億円と試算され、65億円程度が持ち出しと見込まれていました。

1960年代末期からの旧東京都立大学の「悲願」であったキャンパス移転は、こうしてようやく1991年に実現したのです。

 

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