東京都立新宿看護専門学校の歴史

健康福祉学部の看護学科。この源流をたどっていくと、98年開学の「東京都立保健科学大学」、つづいて86年開学の「東京都立医療技術短期大学」へ、さらにその前には、71年に開校した「東京都立新宿看護専門学校」(開校当初は「東京都立新宿高等看護学院」)へとつながります。本学の源流の一つであるこの専門学校は、どのような歴史をたどったのでしょうか。

看護婦不足への対応

1960年代末期、東京都では看護婦の不足が深刻化していました。そこで都は同年、「看護婦の緊急養成の基本方針」を策定、これにより数校の看護専門学校の開設が計画されました。その計画の中で、広尾、豊島に続く3番目の都立の看護専門学校として1971年に開校したのが、「東京都立新宿高等看護学院」でした。所在地は都立豊多摩病院跡地にあたる、新宿区北新宿4-6-1(:東京都子供家庭総合センター他)でした。

「看護学院」の成り立ちと「専門学校」へ

この「東京都立新宿高等看護学院」は、看護専門課程の看護学科が設置され、3年制となっていましたが、東京都立第一高等看護学院(広尾看護専門学校)の飯田橋校舎(所在地:新宿区筑土八幡)の学生を編入学させる形をとったため、早くも翌年には35名の卒業生を輩出しています。規模としては一学年150名、全校で450名をほこり、全国有数の大規模校でした。197712月には学校教育法の改正に伴い専修学校が法制化されたため、各種学校から専修学校に位置づけられるとともに、校名も「東京都立新宿看護専門学校」と変わりました。

都主導の「短大」計画

そんな中、1983年になると東京都により「医療技術短期大学」の設置構想が発表されます。これは、「東京都立府中リハビリテーション専門学校」、「東京都立診療放射線専門学校」そして都立の看護専門学校の一つ、当初の案では「東京都立公衆衛生看護専門学校」を統合して医療系の短大をつくる、という案だったようです。そしてその統合する1校について検討を重ねた結果、当時都内にあった「公衆衛生」「松沢」「新宿」の3つの看護学校が対象となり、最終的に「新宿看護専門学校」を統合することが決定しました。その理由としては、他の看護学校と異なり隣接した病院(=実習施設)を持たず2~3年単位で各病院へお願いをする必要があるなどの、教育・実習の困難さがあげられています。

閉校への反対運動

しかし統合=閉校に当たっては学生たちによる反対運動も起こっています。東京都による学生向けの説明会において全学生が白衣の実習服姿で参加することから始まったこの運動は、職員組合、同窓会、支援政党などの動きが目立ち、複雑化しました。これはその統合自体が、同校が積極的に望んだわけではなく、東京都によって3校が候補とされたうえで選択された、というものだったことが影響したと考えられます。とはいえ、東京都の説明、各教職員らの努力により、なんとか統合を進めた、というのが実情なようです。

「新宿看護専門学校」の閉校とその成果

このような経緯を経て、同校は、府中リハビリテーション専門学校、診療放射線専門学校と統合され、「東京都立医療技術短期大学」となることとなり、1986年の同短大開学に伴い、入学を停止、1988年3月に閉学しました。この「東京都立新宿看護専門学校」は、17年にわたり看護学生の養成にあたり、1700名以上もの卒業生を輩出したとされています。

 

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