首都大学東京は、東京都立の4大学を統合してできた新大学でした。これは、「改革」のために行われた事とされていますが、そもそもなぜ「改革」が必要だったのでしょうか。
1990年代における大学を取り巻く環境
「改革」の必要性の一つ目は、都立4大学に限らず国内全ての大学に関わること、すなわち日本の環境それ自体にありました。
1955年、日本における大学は国立が72校、公立が34校、私立が122校の合計228校ありました。これが65年には317校、70年には382校と激増の一途をたどり、95年には565校を数えるに至りました。また大学の学生数も、55年には52万人(1学年あたり13万人)だったところが、65年には94万人、70年には140万人とこれも激増、95年には254万人となりました。
その一方で日本の18歳人口は、1955年には176万人、65年には229万人とピークを迎えましたが、70年には190万人、95年になると176万人と、徐々に減少の一途をたどっていました。いわゆる、「大学全入時代」がこの数字から見て取れます。
これにより、おおざっぱに言えば、大学は学生を選ぶ側から選ばれる側へと回り、大学間での競争が激しくなった、そのあたりに「改革」の必要性があったわけです。
東京都の財政問題
もう一つ、これは都立ならではの状況として、東京都の財政難が挙げられます。当時の東京都は、美濃部亮吉都政(1967~1979)での財政赤字、その後の鈴木俊一都政(1979~1995)では一時回復したものの90年の都庁移転等に伴う財政赤字と、厳しい状態が続いていました。その赤字は、もしかすると、ともに86年の科学技術大学や保健科学大学の成立、さらには91年の旧東京都立大学のキャンパス移転も一端を担っていたかもしれません。
いずれにせよ、バブル崩壊の影響もあり、青島幸男都政では大学も聖域としない職員定数の削減などを掲げ、実際98年には旧東京都立大学の教員定数が11減、また研究予算も削減、という状況となっていました。
青島都政における改革の方向性
そんな中、都立の4大学に関する改革は、1998年12月、青島東京都知事の下で発表された行政改革プランに明確化します。この中で、都内に多くの私立大学・国立大学がある中、公立大学としての必要性や設置形態の在り方を根本から見直すべき、とされています。
これを受けて、翌99年4月、旧東京都立大学では学内検討を開始、7月には総長、部局長からなる「大学改革推進本部」が発足しました。ここを中心に、教職員や学生を対象とした全学意見交換会なども経て学内の意見を集約、その結果は、2000年2月には独自の改革構想(「東京都立大学改革計画2000」)としてまとめられました。この内容については、概ね「新・東京都立大学改革計画2000」、「東京都大学改革基本方針」や「東京都大学改革大綱」に引き継がれているため、「改革大綱」として別稿で触れることとします。
都立の各大学がこのように改革の必要性を認識していく中で、石原慎太郎都政(1999-2012)を迎えることになります。その石原都政の中で、都立の4大学を取り巻く情勢はどのようになったのか、別稿で見ていきます。