第二次火星独立戦争
深山わたる

4『解放』



二二〇八年四月一日一四時二分UTC

 神崎火奈が生まれ育ったのは、オポチュニティア領有地ウォーターズ市のエル・カピタン地区という場所だった。市街ドームの気密が甘いため常に赤茶色の土埃が舞い、設備が古いため常に冷えた空気が沈殿する、古臭いレゴリス煉瓦の家屋が立ち並ぶ街だ。
 彼女は家ではよく絵本を読んでいた。ボロボロに擦り切れた紙の絵本で、幼い頃に母親が買ってくれたものだ。宇宙を旅する冒険家の物語で、火奈はそれに登場する宇宙船が大好きだった。宇宙船はいつしか彼女の夢となり、それに乗る未来を当然の現実として考えるようになった。
 彼女の夢は、宇宙船の船長だった。
 だから彼女はよく、未来の自分が乗る宇宙船の絵を、絵本を真似して携帯端末に描いていた。母親はそれを見ると、いつも優しい声で言った。
「火奈、頑張って勉強するのよ。頑張って勉強すれば、きっと宇宙船の船長になれるから」
 火奈はそう言われて育ったから、学校では頑張って勉強した。他の子供はあまり勉強をしないのでからかわれたが、火奈は構わなかった。勉強をすれば宇宙船の船長になることが出来る。それなら勉強するに決まっているではないか。
 頑張って勉強をしていたので、学校の成績は良かった。それは火奈にとっては副産物に過ぎなかったが、母親はたいそう喜んでくれたので、悪い気持ちはしなかった。



二二一二年二月一二日一三時五分UTC

 火奈には物心付く前から一緒に遊んでくれる、年上の男の子がいた。名をステフェン・バウテンハウスと言い、火奈の家の近くにある、少し大きな家に住んでいた。彼は火奈が描いた宇宙船の絵を見ると、よくその工学的な間違いを指摘した。
「これだと船体がぐるぐる回転してしまうよ。ちゃんと推進ベクトルが重心を貫くように設計しなきゃ。それにこんな所に乗員室があったらデブリにぶつかった時にすぐに死んでしまう」
「えー、そんなこと気にしてたらカッコ良くなくなっちゃうよー」
 ステフェンは火奈が初等学級に通っていた時点で高等学級に通っていた。たいそう勉強の出来る子供と近所では評判で、火奈は彼に勉強も見て貰っていた。
 火奈が中等学級に通っていた頃、大学生になっていたステフェンが火奈の家を訪問した。火奈はその頃には、家に親が一人しか居ないのが普通ではないことや、自分の家が貧乏でステフェンの家が裕福であることに気が付いていた。
 ステフェンは何かが入った袋を火奈に渡した。
「こういうのはあまり良くないことだとは分かってるんだけど」
 火奈は袋の中を覗き込む。錠剤のパッケージの束がいくつも入れられていた。
「これって……」
「ローグラーヴとイデンケア。たいぶ前に火奈の家では買えてないって聞いたから」
 ローグラーヴは低重力障害軽減薬の、イデンケアは遺伝子損傷修復薬の名前だ。本来は人間が住むのに適さない、火星の低重力や放射線の悪影響を緩和するための薬だった。火星で健康に過ごすためには、この二つの薬を飲むことは必須だ。
 しかし毎日飲もうとすると費用が嵩む上、飲まなくても短期的には影響が無いため、火奈の家のような貧乏な家では購入するのが後回しになりがちだった。
「このお金、どこから……」
「僕のバイト代だから気にしないで。あとお母さんの分もあるから飲ませてあげて」
 ステフェンはそう言うと帰って行った。



二二一三年三月七日一六時〇〇分UTC

 母親の遺体が入った棺桶が、二人の分解場職員の手で分解炉の中に運び込まれていく。それを見送った火奈は、付き添いのステフェンと共に待合室に向かった。待合室の椅子に座ると、二人の間を沈黙が覆った。
 人間の身体を構成する元素は、宇宙に住む人々にとって重要な資源だ。だから人間の遺体は分解炉で分解して、都市の元素循環システムに還元しなければならない。ほとんどの宇宙都市や宇宙国家には、そのような法律が存在していた。
 火奈はステフェンから定期的に二人分のローグラーヴとイデンケアを貰い、母親に飲ませていた。しかし母親は半年前に慢性低重力障害と慢性放射線障害を併発し、三日前にこの世を去った。まだ四〇代だった。
 母親を喪った悲しみよりも、これからどうなるのだろうという不安の方が強かった。生活費を一人で稼いでくれていた母親はもういない。頼れる親戚もいない。自分は児童養護施設に入れられるのだろうか。高等学校に進学することは出来るだろうか。宇宙航の船長になるという夢を叶えることは出来るのだろうか。
「なあ、火奈」
 ステフェンが言った。火奈は傍らに座った彼を見上げる。
「俺と一緒にオポチュニティア市に来ないか?」
「オポチュニティアに?」
 オポチュニティア市はオポチュニティア領有地最大の都市だ。火奈が住むウォーターズ市から南西に五〇〇kmほどの所にある。ステフェンは大学を卒業した後、そこの企業に勤めていた。
彼は火奈に語りかけた。
「宇宙船の船長になりだいんだろう? 支援してくれそうな人を紹介する。君は優等生だからノーとは言われないさ」
 火奈は考える。両親も親類もいない火奈には、それが夢を叶える唯一の方法であるように思われた。
火奈は頷いた。



二二一三年七月二〇日一〇時〇〇分UTC

火奈はステフェンの後に続いて搭乗チューブを潜り、車両に搭乗した。自由席なので座れるかどうか心配だったが、乗車人数が少なかったため無事に席を確保することが出来た。頭上の棚に荷物を入れると、二人は席に着いた。
搭乗口と反対側の窓には、赤茶色の大地に聳える居住ドームの白い外壁が見える。
 アラームが鳴り、列車が走り出した。巨大な市街ドームや工場ドームの間を、列車が駆け抜ける。しばらく走ると視界が開け、赤茶色の大地が広がった。ぽつぽつと採石場などの周辺施設が点在しているのが見える。
『本日は都市間リニア鉄道ウォーターズ線をご利用頂きありがとうございます』
 アナウンスが流れる中、ステフェンは軽食のカロリーバーを齧り始めた。火奈も水筒を取り出して紅茶を飲む。アナウンスによるとウォーターズ市からオポチュニティア市までの所要時間は一時間ほどと、意外と短いようだった。
 車窓を眺めていると、視界がぼやけていくのに気が付いた。ウォーターズ市を出たことで自分のそれまでの生活が終わってしまったことを実感し、涙腺が緩んだのだ。
母親と、自宅のことを思い出し、泣き出してしまった。なぜこんなにも早く逝ってしまったのだろうか。母親に、自分が宇宙船の船長になる姿を見せたかった。それなのに。
隣の席に座ったステフェンが無言で寄り添う。火奈はその袖を掴み、涙を流し続けた。



二二一三年一〇月四日一八時三〇分UTC

 オポチュニティア市に来た火奈は、ステフェンと同じアパートメントに住み始めた。またステフェンの知人であるエトムント・ハルトマン氏の支援の元、オポチュニティア市でも名門と言われるマクスウェル高等学校に通い始めた。
 しばらくすると火奈は、ステフェンが毎晩、職場から帰った後にどこか別の場所に出掛けていることに気付いた。火奈はしばらく迷ったが、本人に聞いてみることにした。ステフェンの部屋を訪ねて聞いてみると、彼は気にした様子もなく言った。
「君も来てみるかい?」
 火奈が頷くと、ステフェンは外出の用意をして外に出た。火奈もそれに続く。ステフェンはアパートメントのある第五ドームを出て第七ドームに入った。治安が悪いことで知られるドームだ。火奈はステフェンの後にしっかり付いていく。
 アルベルト地区という繁華な地域にある『クライメイト・オービター』という名前のパブの前で、ステフェンは足を止めた。彼は扉を開けて店に入る。火奈もそれに倣った。
店内では何人かの男女がテーブルに着き、グラスを片手に談笑していた。そのうちの一人がこちらに気付き、声を掛けてくる。だいぶ飲んでいるようで、酒の臭いがした。
「おお、ステフェン、こんばんは。こっちこいや」
 その後ろで別の一人が火奈の存在に気付く。
「おい、ステフェンが女連れてるぞ」
 ステフェンはテーブルに首を横に振りながら席に着く。
「そういうんじゃない。家族みたいなものだ」
 火奈もステフェンの隣の席に着いた。店の奥から髭面の男が出て来る。ステフェンが彼にレッドアイを注文するついでに、火奈もオレンジジュースを注文した。
「それで、彼らは?」
 火奈は尋ねた。ステフェンは答える。
「彼らは『市民軍』。火星独立運動を展開している、活動家という奴さ」
「火星独立運動?」
 火奈は怪訝な顔をした。オポチュニティア領有地にそのような運動が起こっていることは知っていたが、ステフェンがそれに関わっているとは思ってもみなかった。
「ああ。このパブはそのメンバーの溜まり場のようなものだ。僕はここで議論を交わすために、毎晩アパートメントを抜け出していたわけさ」
「独立運動って何やってるの? デモとか?」
 火奈は学校からの帰りに、横断幕を掲げながらヴィクトリア地区を火星省に向けて行進している集団を見かけたことがあった。ステフェンもあのようなことをしているのだろうか。
「デモを主催しているのは『赤服運動』という別の団体だな。俺たちがやっているのは火星省の建物に石を投げたり、地球系企業の資産を壊して回ったり……」
 火奈は目を剥いた。
「犯罪じゃない!」
「そうだ。犯罪さ。でも犯罪でもしなければやってられないのも事実でね。まあ俺もこんな安っぽいことをするのは止めたいと思っていて、最近はネットワーク作りに注力している」
 マスターがレッドアイとオレンジジュースのグラスをテーブルに置いた。火奈はストローからオレンジジュースを飲む。
「ネットワーク……」
「俺たちと同じようなことを考えている奴は、アメリカの七つの火星領有地にたくさんいる。そういう奴等との間にパイプを作ることで、いつでも力を合わせられるような体勢を整える」
「それで大きな犯罪をやる?」
「犯罪じゃない。革命だ。七つの火星領有地をアメリカから独立させ、自分で自分のことを決められる国にする」
 こんなに生き生きと話すステフェンを見たのは初めてかもしれない。彼は目の前のレッドアイを飲むことも忘れているようだ。
「何でそんなことを……?」
 火奈は尋ねる。ステフェンは裕福な家に生まれて、これまで平穏無事な生活を送ってきた。それなのになぜその平穏を壊そうとするのか、不思議に思ったからだ。
 ステフェンは答えた。
「それは君のような子を、不幸から救うためだ」
「私のような人間を……?」
「ああ。アメリカ領火星領有地の人間の半分が、お金が無いために遺伝子損傷修復薬や低重力障害軽減薬といった生存必需品を買えないでいる。その結果、火星在住アメリカ人の平均寿命はたったの六〇歳だ。地球在住アメリカ人の平均寿命が一二〇歳だから、その半分だな。君が世話になったハルトマン氏なんかは、そうした状況の改善をアメリカ政府に何度も求めてきたが、どれも無視された。俺たちには長生きする権利すら無いんだ」
「だからアメリカから独立すると……?」
「ああ。火星領有地の貧困の原因は、アメリカ政府の領有地政策にある。彼らは火星領有地の経済活動を統制することで、俺たちが生み出した利益を不当に奪ってきたんだ。僕はもう、君のように悲しむ子供を見なくないんだよ」
 火奈は言葉を失った。
横合いから赤ら顔の男が話しかけてくる。
「ステフェンはすげえんだよ。最近入ってきたばかりなのに、政治家や弁護士の人らと互角に議論しよる。頭が良いんだろうなあ」
 そこで店の扉が開いた。きちんとした身なりの男女が二人、店に入って来る。そのうち一人は火奈も見知っていた。資産家のエトムント・ハルトマン氏だ。
 ハルトマンは店の人々に言った。
「みなさん、こちらが本日のゲスト、マレア領有地からいらした政治学者のフェリシア・マルティネス先生です」
 何人かが歓声を上げ、拍手をした。マルティネスと呼ばれた女性がパブにいる面々に向かって言った。
「市民軍の皆さん、こんばんは。マレア領有地のフェリシア・マルティネスです。今日は皆さんとお話できることを楽しみにしておりました」
 ステフェンが火奈に言う。
「火星独立運動に関わっているのは俺たちみたいな一般市民ばかりじゃない。政治家や弁護士、学者なんかも何人もいるんだ」
 そこでマルティネスがステフェンに話しかけてきた。
「あなたがミスター・ステフェン・バウテンハウス? 少しお話させて頂いてもよろしいかしら?」
「すまない、この方と話してくる」
 ステフェンはそう言って席を立った。火奈は一人取り残される。
 正直に言って、途方に暮れていた。兄弟のような関係の男が、政治運動に加わっていたのだ。しかもかなり過激なこともやっているらしい。
 火奈が悩んでいるところに、ハルトマンが近付いてきた。
「おお、君がこんなところにいるとは驚きだ」
「ああ、いえ、私は市民軍のメンバーというわけではなくて」
 火奈はハルトマンに事情を一通り話した。
 ハルトマンは大きく頷く。
「なるほど。それで神崎さんは戸惑っておられるわけですな。確かにそれは当然のことだ。それに市民軍の過激な活動に疑義を呈する者は、火星独立運動の中にも多い。私も暴力によらず、議論によってアメリカ政府との和解を目指したいと思っているし、恐らくバウテンハウス君もそうだろう」
「はあ」
「しかし暴力しか解決手段が無いこともある、というのも事実でしてな。マルティネス君はまだ議論で解決できる余地があると信じておるようだが、バウテンハウス君はもう議論で解決できる余地は無いと考えておる」
「私はどうすればいいんでしょう?」
「バウテンハウス君の手段はともかくとして、目的がまともであることは保証しよう。昨年、各領有地に領有地議会が設置されたように、火星領有地の権利拡大運動は着実に広がっている。だがもちろん君がこの運動に加わる義務は全くない。大人としても子供は巻き込みたくないというのが正直なところでな。だからバウテンハウス君を優しく見守ってあげてくれないか」
「わかりました。ありがとうございます」
「君を驚かせてしまって申し訳ない。さあ、もう遅いから君は帰りなさい。バウテンハウス君はまだマルティネス君と話したいようだから、誰か女性を見送りに付けよう」
 火奈は市民軍の女性メンバーの一人と共に『クライメイト・オービター』を出て、アパートメントに帰った。慣れない酒場の空気に疲れた火奈は、シャワーを浴びるとすぐに眠りに就いた。
 翌朝、ステフェンが怪我を負って帰って来た。
 アパートメントに帰って来たステフェンは、頬が腫れ、額が切れていた。足も怪我しているらしく、歩き方が左右非対称だ。呼び出されて玄関を出た火奈は、彼を自室に入れて椅子に座らせた。救急箱を取り出して応急処置を始める。
「大丈夫?!」
「ああ。帰りがけに襲われて殴る蹴るされた」
「誰にやられたの?」
「分からん。たぶん火星独立運動に反対する人間だと思うが……」
 とりあえず患部に治癒テープを貼った火奈は、ステフェンの向かいの椅子に座った。やはりあんな運動に関わるのは止めさせなければならない。
「そんな危ないこと止めようよ。怪我してまですることじゃない」
 しかしステフェンは火奈の言うことを聞かなかった。彼は治癒テープを貼られた額を擦ると、椅子から立ち上がった。片足を打撲しているので、重心が片方に寄っている。
「いいや、彼らに屈するつもりはない」
 火奈は少し考えてから言った。
「それなら、私が市民軍に入る」
「は?」
「私が同じ運動に参加していたら、ステフェンも無茶を出来ないでしょう? それにステフェンにとってあの運動が命を懸けるほどのものであるなら、私もそれに協力したい」
「なるほど、筋は通ってる」
 ステフェンは少し笑うと、頷いた。
「わかった。そう取り計らっておこう。だが危険なことは絶対にさせない。それと勉強はちゃんと続けて欲しい。俺の夢のために君の夢を壊したくはない」
「わかった」
 翌日から火奈は、ステフェンと共にアルベルト地区のパブ『クライメイト・オービター』に出入りするようになった。



二二一六年四月二日一五時二分UTC

 火奈は『クライメイト・オービター』に通ううちに、市民軍としての仕事を任されるようになった。危険な運動に参加させられることは無く、他の市民団体との交流や折衝といった穏健な活動がほとんどだった。また多くの場合、ステフェンが付き添いに来た。
 市民軍の活動に参加しているとき、彼は饒舌だった。
「火星領有地には他国と独自に貿易をする権利が無い。火星産の資源を安く買い叩かれ、地球製の製品を高く売り付けられている。産業機械の値段も下がらないから、地球では既にロボットの仕事である建設作業や採掘作業も、火星では未だに人間の仕事だ」
「火星領有地が作られた当初は、ローグラーヴもイデンケアも政府が領有地市民に無償で提供するという約束だった。しかし彼らはそれを反故にした。その癖に火星での製造や他国からの輸入は安全性を理由に制限するから、貧乏人が買える値段にならない」
「多くの地球系鉱山会社は、政府の優遇政策の元で自動機械を使って資源を採掘し、人工知能を使って生産を管理し、地球系宇宙運送会社の貨物船で金属を地球に輸出している。火星の資源は持ち去られ、領有地市民には何も還元されない」
 火星独立運動や火星権利運動に参加する人々は、ステフェンの話を注意深く聞いていた。火奈が見ていく中で、ステフェンは着実に人気を獲得していった。
 ステフェンは仕事や活動の合間、携帯端末を操作していることが多かった。何をしているのかと聞くと、書籍や雑誌や新聞を読んだり、インターネットを閲覧したりしているとのことだった。
「俺は間違った知識では人を扇動したくない。だから常に正しい情報を得るようにしているんだ。審議判定フィルターはいつも最新のものを使っている」
 今の時代、メディアは虚偽の情報で溢れ返っている。だから正確な情報を得るためには審議判定フィルターと呼ばれる人工知能の援助が必要だ。最新のものほど精度が高いが、値段も高い。ステフェンは支援者から得た資金でそれを購入しているらしかった。
 ステフェンは市民軍の活動を熱心に広めた。火星の独立を待望している人は火奈が思っていたよりも多く、市民軍は多くの場所で歓迎された。特に急進的な市民軍は、政府に対する不満の大きい貧困層に支持された。
 大学受験を控えたある日、火奈はエトムント・ハルトマンに呼び出された。市民軍の支援者の一人でもある資産家だ。子供の就学を支援する財団を設立していて、火奈の学費もそこから出ていた。最近では各領有地の代表で構成される「惑星会議」のメンバーとして火星権利運動を主導している。
彼は火奈を事務所に通すと、応接室のソファーに座らせた。
「バウテンハウス君は頑張っているようだね。市民軍は拡大し、支持者も増加した。彼自信も市民軍の中核的なメンバーとして活躍している。彼はすごい人だな。ほとんど悪評を聞かない」
 ハルトマンはしばらく世間話をした後、切り出した。
「ところで神崎君、君は宇宙航学を志望しているようだね。将来は宇宙船の乗員になるつもりかい?」
「はい」
「ふむ。この成績であれば大学でも苦労はしないだろう。そこでなのだが、君は軍人なってみるつもりは無いかね?」
「軍人、ですか?」
「ああ。実は惑星会議で、木星軍事機構の士官学校に留学生を送ろうという話が出ていてな。火星が独立するのなら軍人が必要だ。戦争による独立となれば尚更な。だから今のうちに人材を育成しておきたい。君ならぴったりだと思ってね」
「なるほど」
 火奈としては悪い話ではない。宇宙船の船長になれるなら商船でも軍艦でも構わなかった。ただ、軍人という選択肢が突飛であったため考えていなかっただけだ。
自分の夢を叶えながらステフェンの夢を助けるならば、軍艦の艦長というのは丁度良いのではないだろうか。
ハルトマンは言った。
「どうだろう。実際に留学生を送るのは何年か先ということになるから、まだ結論は出さなくて構わない。バウテンハウス君にも相談すれば良かろう」
 火奈は考えさせてもらうとだけ言って事務所を辞去したが、彼女の中ではすでに結論は決まっていた。



二二二〇年七月二〇日一一時〇分UTC

 高等学校を卒業した火奈は、スピリティア大学の宇宙航学科に進学した。二年目以降はエマーソン軌道駅にある学生寮に住むことになったため、ステフェンとは離れ離れになった。
 実際に宇宙に出て、操船技術を学ぶのはこれが初めてだった。火奈は猛烈に勉強を重ね、優秀な成績を収めた。木星軍事機構の士官学校に行くことは心に決めていたから、学校の勉強の傍らその方面の勉強もした。
 火奈の学友にも火星独立運動の支持者は多かった。スピリティア大学の宇宙航学科にはアメリカ領火星領有地中の優秀な学生が集まっているから、それだけステフェンたちの運動が広まっているということだった。
 また火奈は大学の援助で学習能力強化処置を受けた。これはニューロデバイスと呼ばれるナノデバイスの一種を使ったもので、この処置を受けたことで火奈は極めて効率的に宇宙航行士としての知識と経験を積むことが出来た。
 大学三年目のある日、ハルトマンから留学の件について連絡が来た。火奈はすぐに了承の返事を送った。そして翌年、火奈はスピリティア大学宇宙航学科を主席で卒業した。
 火奈は軌道往還機に乗って一度地表に戻り、ステフェンに再会した。久しぶりに会った彼はすっかり市民軍のリーダー的存在になっていた。
 火奈はステフェンに言った。
「ハルトマンさんに軍人にならないかって誘われたんだ。だから木星軍事機構の士官学校に留学してくる。そこで宇宙戦闘艦の艦長を目指す」
「なるほど。宇宙戦闘艦の艦長になるのであれば、君の夢も叶えられるな。良いんじゃないか」
 ステフェンはそう言った。
 火奈は軌道往還機で宇宙に戻ると、ハルトマンの会社がチャーターした旅客船に乗り込んだ。惑星会議はスピリティア大学の他の学生にも声を掛けていたようで、旅客船には見知った顔がいくつか見られた。
 船室の壁面ディスプレイには、旅客船の船外カメラが撮影した火星が映し出されていた。あの赤い地表では、今もステフェンたちが戦っている。
 初期加速用のエンジンが始動し、旅客船が動き始めた。しばらく航行すると旅客船は主エンジンを点火し、旅客船が木星に向けた軌道の遷移を開始する。壁面ディスプレイの中の火星は徐々に小さくなって行き、やがて赤い点となった。



二二二二年六月一日一一時〇分UTC

 衛星カリストにある木星軍事機構スラマリット士官学校に入学した火奈は、再びニューロデバイスの投与を受けた。今度は軍人としての能力を強化するためのもので、これにより火奈は判断力と忍耐力を身につけた。
「金持ちはニューロデバイスを使って自分を強化することで、どんな職業にだって就くことができる。だが貧乏人が違う。それどころか貧乏人は特別な才能を持っていたとしても、ニューロデバイスを使った金持ちに仕事を奪われてしまう」
 火奈はステフェンのそんな言葉を思い出した。
 士官学校での生活はとても合理的で、ゆえに非常に過酷なものだった。宇宙艦艇の乗組員は、長い時間を狭い艦内で生活することを求められる。食事や娯楽の質も最低限のものだ。そして時には殺し合いの中に身を置かなければならない。そんな環境に適応するために、士官学校での生活にも同種の過酷さが求められるのだ。
 理不尽とさえ言える厳格な教官と過酷な訓練、狭い相部屋での共同生活に、ニューロデバイス処置を受けてさえも脱落するものが後を絶たなかった。
 貧乏な暮らしに慣れていたはずの火奈にとっても、それは苦痛であった。しかし、ステフェンのことを思い出すことで何とか耐えることが出来た。また大学時代から勉強していたアドバンテージもあり、成績は優秀だった。
 入学から一年ほどが経った頃、アメリカ合衆国火星領有地とヨーロッパ連合火星領有地が共同での独立を画策していることと、木星軍事機構から供与された宇宙艦艇と木星軍事機構に留学している学生による艦隊の編成を構想していることを知らされた。参加を打診された火奈は二つ返事で了承した。
 それから新任士官扱いでゼノディフェンス社の練習艦隊に配属され、練習艦《オイシン》でのより実践的な訓練に従事した。そしてここで優秀な成績を収めると、火奈は年長の留学生たちを押さえて火星諸国連合宇宙軍第一艦隊司令官に任命された。
 ステフェン・バウテンハウスの死を知ったのは、それとほぼ同じ頃だった。日頃から火星関連の情報を収集していた火奈は、あるニュースメディアでそれを知った。アメリカ合衆国への残留を主張する活動家による銃殺とのことだった。
 しかし火奈が悲しみに言葉を失ったのは一瞬のことだった。彼女は心と体を駆動させることを止めなかった。ニューロデバイスにより生成された人工神経網を活性化させ、軍人としての冷静さと冷酷さで動揺と悲嘆を埋め尽くした。それから、彼女は休暇でも人工神経網を非活性化することは無くなった。



二二二二年九月五日九時〇分UTC

 軽戦闘艦《オイシン》の艦長席に座った第二九特別任務艦隊のカナ・カンザキ少佐は、基地艦《ヴァルハラ》に置かれた司令部からの命令を受けると、航行長に出航を命じた。
 練習艦から軽戦闘艦に改装された《オイシン》は、化学噴射による初期加速を開始し、衛星アナンケの繋留シャフトから離脱した。アナンケから十分に離れると、核融合エンジンを点火する。
 発令所の共有ディスプレイの正面には、先行する艦艇を示す光点が映し出されていた。右手には、赤褐色と乳白色が混ざり合った木星の姿が大きく映し出されている。
目的地である火星は、まだ見えなかった。

《続く》
スポンサーリンク