白南風ドロップス 八
大塚慎太郎


八、えごの花が咲く
 湯ノ宮陽鞠はずらりと数字が並んだ紙を眺めて溜息を吐いた。それを聞いて藤崎美乃は一層深い溜息。畳に預けていた身を起こし、椅子に腰かけた陽鞠に後ろから迫った。
「見せて」
 一言言うと、陽鞠は勢いよく振り返る。美乃から試験結果表を遠のけ、じろりと睨め付けた。
「あんたには関係ないでしょ」
「関係大ありだよ。現文、英語、数学、ひまちゃんに教えたのは誰だったかなー?」
「それはそうだけど、それとこれとはまた別っていうか……」
 陽鞠が怯んだすきに、美乃は陽鞠の手元から件の紙を奪い取った。
「あっ、ちょっと。何すんのよ」
「さっきからうるさいんだよ、私が見てあげる。赤点いくつ⁈」
 美乃は紙を両手で大きく広げ、目を這わせる。
「一つです……」
「なんと」
 二人の間にしばし静かな間ができた後、美乃は諸手を挙げて笑った。「一個だけ? すごーい、頑張ったじゃん!」
 美乃が念入りに教えた数学に関しては、特に良好な数字である。一つ一つ、丁寧に偏差値や順位まで見ていく。意外な数字が目に入った。陽鞠を見て尋ねる。
「あれっ、生物どうしたの? ぎりぎりじゃん。生き物大好きっ子なのに」
 真っ直ぐな視線を忌避して、陽鞠は口元を覆うように頬杖を突く。
「……好きと得意は違うのよ」
「ああ、『下手の横好き』」
 陽鞠は盛大に顔を顰め、唸り声をあげた。
「赤点は……あー、化学かぁ。化学は私もあんまり分かんないからな」
「赤点なんて初めてよ……」
 沈み込む陽鞠の肩を叩き、美乃はからからと笑った。満足したように、恭しく結果表を返す。読み止しで畳に伏せていた本を取り上げ、今度は座位で読書を再開する。
 その様子を見た陽鞠は大人しく向き直り、卓上のクリアファイルに結果表をしまった。一人黙りこくる陽鞠をちらと見て、本に視線は戻したまま美乃が呟く。
「私、この期間が一番好き。勉強しなさいとか言われないで、ただ授業受けて、夏休みを待つの」
「唐突ね。……待って、それ私への当てつけ?」
 聞き捨てならない言葉に陽鞠はぐるりと振り向く。その反応を一切予想していなかった美乃は目と口を丸く開いた。
「何でそうなるの?」
 陽鞠は成績表がしまわれたファイルを、爪で小突いた。ファイル越しに机に当たり、コツコツと硬質な音が鳴る。
「化学の追試」
「ああ」
「はっ、これが最後ね。せいぜい楽しみなさいよ」
「へ、何で最後?」
「だって、次の長期休みは年末よ? 冬休み前から、今までの総復習しなさいとか言われ始めるわよ」
 もっともらしい陽鞠の発言に、しかし美乃は沈黙した。彼女たちにはすでに、ほぼ無条件で進める大学が用意されている。
「ひまちゃん、外部受験するの?」
「しないけど?」
「じゃあ平気だよー。今の高三だってばりばりに部活やってるし」
 美乃は気の抜けた言葉を返す。彼女は黙って読書に戻り、陽鞠はファイルを机の引き出しに叩き込んだ。
 そこで会話は終わったかに見えた。
「ああ、小百合ちゃんがいいんじゃない?」
 何の前触れもなく、美乃は話を再開させる。読んでいた本は閉じ、床に寝かせられていた。面倒なことが始まる予感を感じた。
「はあ? 何の話よ?」
「さっきの化学だよ」
 曰く追試についてらしい。しかし、遠藤小百合は一年生である。二年の陽鞠に勉強を教えられる力があるとは考えにくい。
「何でそこで遠藤が出てくるのよ」
 当然の問いに、美乃はゆっくり応えていく。
「今日会ったんだよ、小百合ちゃんと。愛ちゃんと一緒に勉強して」
「森島と。あいつらそんなに仲良かったかしら?」
「部活が一緒じゃん。テニスかバドか、忘れちゃったけど。多分テニス」
「ああ、バド部だったわね」
「そうなの? で、その勉強会のおかげですごく成績が良かったんだって」
「化学」
「そう!」
 ある程度、美乃の言いたいことは理解した陽鞠だが、それだけで教わる理由にはならない。そもそも範囲が違うのだ。憮然たる面持ちでいる陽鞠をよそに、美乃は中空を見つめながら滔々と語り続けた。
「そうそう真智子ちゃん、鍵問題が大変らしいよ。部活の鍵もめんどくさいけど、委員会の鍵もえらいこっちゃなんだって。ひまちゃん、知ってる? あ、その顔はまだ知らないな。学校のごみって、美化委員が集めて持ってくところがあるでしょ。そこの鍵が、無くなったんじゃなくて壊されたんだって。真智子ちゃんも災難だよね。全然違うけど同じようなトラブルが続いて。ね、ちょっと私たちも手を貸さない?」
 頷きも相槌を打つこともせず、陽鞠は静かに話を聞いていた。美乃の言葉が止まったところで口を開く。
「手を貸すって何ができるのよ、部外者よ、私も、あんたも」
「部外者だからこそだよ。ひまちゃんは状況をあんまり把握してないでしょ。知れば分かることがあるかもしれない。可愛い後輩のためにもさ、ね?」
 後輩のためというよりも、好奇心の方が勝っている輝いた目をしている。
「別に直属の後輩ってわけじゃないし、可愛がってるわけでも」
「可愛くないの?」
「可愛いっていうか、かわいそうね」
 眉根を寄せて微笑んだ。彼女の溜息を聞いて、美乃はまた話題を横道に逸らす。
「そういえば、かわいそうって言えば。小百合ちゃんは三組で、真智子ちゃんは一組でしょ」
「そーね」
「テスト内容が違うじゃん」
「普通と、特進」
「うん。でも化学と家庭基礎は一緒なんだって……」
 美乃は小百合との邂逅の話を繰り返し、詳細に語り出した。

 美乃が小百合と会ったのは、今日の放課後、学校から寮に帰る道中だった。小道を一人歩く美乃に、小百合が後ろから声をかける。
「先輩、今帰りですか?」
 小走りで追いついて美乃の横につき、二人は並んで歩く。美乃が話題を探している間に、小百合から進んで自分の身の回りのことを話し始めた。テスト期間を挿むと久しぶりの部活は堪えるだとか、夏休みの帰省が待ち遠しいだとか。 美化委員会の問題も小百合自身が口にした。
 その様子を見ていて、美乃は微笑みながら言う。
「小百合ちゃん、何か今日は一段と機嫌がいいね。テストが良かったの?」
 言い当てられたことに、はにかみ笑いながら小百合は頷いた。
「あ、はい。そうなんです。実は少し前から何度か、愛と勉強会をしまして」
「ああ、教え合ったりとか?」
「いや、殆どそんなのは無かったんですけど、あいつ勉強切り上げるのが早くて、自分もその時間内で終わらせないとって思ったら結構進むんです。それで睡眠時間もちゃんと取れて」
「ちゃんと寝てるかなって心配だったけど、それは安心した」
「はい、逆に真智子は部活も委員会も忙しそうであんまり勉強できなかったみたいです。実は、一組と問題が共通なのは化学と家庭基礎だけだったんですけど、それ両方勝ちました!」
 きらきらと目を輝かせながらガッツポーズをとる小百合を見て、美乃の目が少しだけ揺らいだ。薄く口を開き、言葉を捻り出す。
「へえ、おめでとう」
「真智子が忙しかったから勝てた、ていうのはちょっと悔しいけど、でも勝ちは勝ちです」
 小百合は噛みしめるように言った。

「そこでちょっと私、まるで犯行声明だなって思っちゃったんだ」
 困ったように笑う美乃の正面で、陽鞠はにたりと口をゆがめた。
「へえ、あんた、可愛い後輩に疑いかけたんだ」
「それは……」
 逡巡の沈黙の後、陽鞠は話を促した。
「いいわ。あんたが知ってること全部吐きな」
「えっとね、演劇部の部長も美化委員長も、三年の仲井戸佑花さんだって!」
 続く言葉を待つ陽鞠と、陽鞠の反応を待つ美乃。妙な沈黙が二人の間に流れた。先に気付いたのは陽鞠だった。
「まさかとは思うけど、それが全部なの?」
 こくりと頷く美乃を見て、陽鞠は今日一番に大きい溜息を吐く。
「まずは真智子からね……」
「よしっ、情報収集だね」
 美乃の不遜な態度に、「腹立たしい」と呟いた。
 聞こえないふりをする美乃は、すでにメモ帳片手に上靴を履いて部屋を出る準備を済ませていた。彼女の手元に筆記具が無いことを認め、陽鞠は盛大に「ばかね!」と吐き出す。自分の筆箱から四色ボールペンをむしり取って、美乃を押しのけるように部屋を出る。
 夕食後、どの部屋も「暑いから」とドアが開け放たれていて、廊下まで朗らかな話し声が漏れ聞こえていた。
 狂騒の波を切り裂くように、二人は歩く。目指すは玉井真智子の部屋、三階だ。階段を上ると、三階の廊下は意外にも静かだった。
「何で?」
 二人は顔を見合わせる。すぐに美乃が手を打った。
「お風呂の時間だ」
「ああ、そうか」
 夜は風呂を使える時間が、階ごとに区切られていた。腕時計を外していた陽鞠は、美乃の腕をむんずと掴む。
「もうすぐ切り替わりね。まあ、いるでしょ」
 時刻を確認して投げ捨てると、一人でずかずかと廊下を歩きだした。談話室を過ぎ、西の端の方に目指す部屋はあった。上靴の片方を挿んで乱雑に留められた扉を見て、陽鞠はそれをドカドカと叩いた。「玉井、ちょっと出てきなさい」
「ひゅー、カツアゲみたいだね、ひまちゃん」
 後ろに立った美乃が茶化すが、陽鞠の手は緩まない。少しして、陽鞠の手元からドアが退いた。次いで不機嫌そうな小百合が顔を出した。
「何ですか。こんな時間に騒々しい」
「玉井はどうした」
「まだ風呂です。言伝なら預かりますけど」
「いや、直接聞きたいことがある。すぐ帰ってくるわ。美乃、ここで待たせてもらいましょう」
 主を押しのけて、陽鞠は板間に上がる。美乃は一瞬、申し訳なさそうに小百合に手を合わせ、すぐに陽鞠に続いた。最後に小百合が、まだ湿っている髪をかき混ぜながら入った。
 陽鞠は部屋の中心にどっかと腰を下ろした。その横にちょこんと美乃が座る。小百合は自分の机に広げていた冊子を閉じた。先程まで読んでいたらしいその冊子は、大判ながらも雑誌とは言い難い厚みを持っている。陽鞠は興味を持った。
「何、それ」
「ギフトカタログです。つい先日誕生日だったもんで、親が送ってきたんです」
「へえ、いつなの?」
 美乃が口を挿んだ。
「三日です」
「本当についこの間なんだね」
「って言ったじゃないですか。……しかもそれが、まあギフトカタログですから、香典返しとかに使われるようなもので、特に欲しいものが無いんですよね。鞄とか、食器とか、もう間に合ってますって感じで」
「確かに高校生が欲しがるものは、あんまり載ってないかもね」
「何送るか考えるのが面倒だったからだと思うんですけど、それならそれで、商品券とかにしてくれればよかったのに」
「買いに行く手間が省けるよ。テスト近くて忙しくても選べるように、じゃない?」
「どっちにしろ終わって暇になってから選びますよ」
 美乃と小百合の会話をよそに、陽鞠はカタログをまじまじと眺めていた。それを見て、小百合は尋ねる。
「ギフトカタログってそんなに珍しいもんですか? 真智子もうるさ……興味津々で」
「……肉、頼みなさいよ」
 小百合の言葉を一切聞かず、陽鞠は言った。大きく冊子を広げる少女に、小百合は顔をゆがめた。ばっさりと切り捨てる。
「え、肉。私には調理できませんよ」
「じゃあ、マグカップの新調」
 左手の人差し指を挿んでいたページを広げなおす。カラフルなマグカップがいくつか載っていたが、その端にちょこんと佇むガラス製のものに小百合は注目した。
「ふーん、このガラスのやつは結構綺麗ですね。二個もいらないけど」
 そのページに載っていたものは全てペアだった。
「じゃあ、一個私に寄こしなさいよ」
「嫌ですよ。私のプレゼントです」
 美乃が陽鞠の手からカタログを奪い、ぱらぱらとページをめくった。ティーポットの写真を小百合に示す。
「こっちのポットは? これも同じ、ガラスが綺麗だよ」
 シンプルだが、華奢な持ち手が美しい曲線を描く、美乃好みのポットだった。小百合はしばしそれを眺めるが、結局首を横に振った。
「私、紅茶好きじゃないんです」
 残念そうにカタログを閉じる美乃の背後で、「えーっ」と大きな声がした。一同が見やると、風呂から帰ってきた真智子が棒立ちになっていた。
「小百合ちゃん、紅茶嫌いなの? え、飲んでなかった? 幻覚?」
 くりくりと目を丸くして乗り出してくる真智子を、小百合は手で制する。
「嫌いじゃなくて、好きじゃないだけ。匂いもの全般的に好きじゃないよ」
「へぇ……知らなかった」
 ぽかんとしている真智子をよそに、陽鞠と美乃は顔を見合わせた。
「始めるわよ」
「小百合ちゃんはどうする?」
「事情聴取は一人ずつがセオリーよ」
 二人は頷きあう。
 先に立ち上がった陽鞠が、状況がつかめていない小百合に別れを告げ、状況がつかめていない真智子を部屋から引きずり出した。


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