天野真之介さん
埼玉県狭山市出身/首都大学東京 経営学系卒業
2012年に富士ゼロックス株式会社に新卒入社。2016年に JICA との民間連携プロジェクトに参加して2年間フィリピンに在住。2017年12月に帰国。2019年5月に株式会社日本M&Aセンターに転職。
第1部:新卒から4年間
―本日はよろしくお願いします。最初に入社したところは富士ゼロックスだったと思うのですが、なぜ富士ゼロックスを選択したのですか?
最初は一番身近な人を幸せにできる仕事に就きたいと思っていました。それが誰かと考えたときに、頭に浮かんだのが「親」でした。
両親は共働きで母は看護師だったのですが、育児しながら働いている中で、仕事で結構疲れて帰ってきて、家庭では父と喧嘩もしていて、仕事が大変だとそれが家庭に返ってくるという悪循環が起きていました。
その悪循環を止められるような仕組みはないかと考えていた時に、富士ゼロックスのインターンシップで「紙からデジタルにいろんなドキュメントが変わっていく仕組み」に出会い、この仕組みをうまく世の中へ、父や母の働くもとへ届けられるような仕事ができたらと思い、就職先を決めました。
―なるほど。アナログな現場からデジタルインフラを整えていく仕事に興味を持っていったということですね。
はい。”働き方改革”という言葉が出てきてしばらく経ちましたが、そんな取り組みの先駆けのようなことをしていました。
―富士ゼロックスでは具体的にどのような仕事をしていたのですか?
例えば、お客様が「学校」であるときは、授業で使用する黒板が電子黒板になっていったり、出席管理が電子管理になっていたりします。他にも学生を集めるために学校内にあるデータを活かしてマーケティングの仕組みとなる基盤づくり(CRM)もしていました。
お客さんが求めていることを実現するためには何をすべきかを考え、他のベンダーさんのサービスとかシステムを組み立てて提供していました。
―物を売るというより仕組み自体を提案してそれを売っている仕事ということだったんですね。
はい、そうですね。他には例えばロボティクスプロセスオートメーション(RPA)という自動化システムを電化製品の修理現場に導入していたのですが、白物家電って秋と春にとても故障が発生するんです。なぜかと言うと季節の変わり目でクーラーをしばらく使っていない時期から暖房や冷房をいきなり使い始める時期だからです。故障が発生したらエンジニアがいき、「故障直しましたよ」という書類を記載します。ただ、それを故障してから直しに行くのではなくエアコンの稼働データをシステムに流して、データ傾向からそろそろ故障しそうといった信号を自動で通知したり、新しい製品アナウンスをエンジニアへ提案したりする動きをできるようにしました。手作業だとどうしても時間がかかってしまう部分を、情報を入力して自動的にシステムに流し込むという提案をしました。
―なかなか複雑なお仕事なイメージがありますが、どういうところが楽しかったのですか?
一つは答えが無かったという点です。
既に課題が見えていてそれを解決していくのであれば単調なのですが、クライアントが潜在的に困っていることをこちらが気づいてあげて課題を見つけて改善策を提案していました。さらにその解決方法は無限にやり方があるので、それを一個一個積み上げていく楽しさがありました。
もう一つは企業役員の人とコミュニケーションを交わせる点です。
ソリューションが経営課題に紐づいていると上場企業の役員の人と面談ができて、企業のトップはどんなことを考えて仕事をしているのかを知ることができました。
―相対する人が上場企業の役員さんだったんですね。新入社員~3年目くらいの時から、そういう人に対して提案をしていたということですよね。緊張しなかったですか。
そうですね。もちろん上司がフォローしてくれる中でという形ではあるんですけどね。
「段取り八割」と先輩からは教えられていたのでしっかり準備をして臨んだのですが、それでも緊張しました。新人だろうと、僕は富士ゼロックスという看板を背負っていたので、「天野さんが代表者ですね」と見られます。その時点で僕はプロでなければいけない。プロ意識を継続して持っていなければならないという点は大変だと思いました。
―そのような提案はお金が結構大きく動きませんか。
そうですね、大体3億円前後の提案があったりします。どの仕事にも共通すると思いますが「プロ意識の大事さ」は学生に伝えたい点です。
僕の仕事は、30社くらいの様々な業種(例えば学校、印刷業界、ぬいぐるみ制作会社など)のそれぞれ異なる課題をくみ上げなければなりませんでした。
一つの会社でも、デザインチームが抱えている課題、営業が抱えている課題と部署毎に抱えている課題があって、いろんなパターンの課題に対して提案をしていくので、やれることはたくさんありました。
―とてもやりがいがありそうですね。富士ゼロックスではそのお仕事をトータルどれくらいされていましたか。
新卒から4年間在籍し、その後青年海外協力隊で2年間フィリピンにいって、富士ゼロックスに戻って1年仕事をしていたので、富士ゼロックスでの仕事はトータル5年でした。
第2部:青年海外協力隊時代
―富士ゼロックスではアナログをデジタルに変えていくというお仕事をしていたと思うのですが、そこから青年海外協力隊に行くきっかけは何だったのですか。
青年海外協力隊に行くことを決める前に、そもそも一度富士ゼロックスをやめようとしていました。理由はいろいろあるのですが、ハングリーな先輩が身近にはおらず、もっとバリバリ働きたかった。後は仕事に比較的慣れてきたなという中で異動も少ない会社だったので不安でした。
あと10年同じ仕事やることを想定したときに、他の同級生はもっと僕の知らない世界で挑戦しているんじゃないかと不安を感じました。そこで、僕がまだ知らない領域にチャレンジするとしたら、どこだろうと探した結果、海外にたどり着きました。
―知らない領域というイメージが海外につながったのですか。
はい。特に僕の未知な部分、苦手な部分だからですね。僕は大学時代TOEIC400点くらいしかなかったのですが、敢えてそういう状況に挑戦したいなと思いました。当時、日本企業も海外で挑戦していかなければならないと思っていた中で、僕が30~40歳の時に国内でしか仕事ができないという可能性の低い人材よりも、どこでも仕事ができる人材になり、選択肢の幅を広げたかったのです。
―幅を広げたいと思って国内の違う職場ではなくて、海外の青年海外協力隊に行くというのはすごい決断ですね・・・。天野さんの中ではそんなに一大決心というわけではなかったのですか。
いえ、一大決心でしたよ。実質会社を辞めるということになるのでキャリアを捨てる形になる。離職している間もキャリアを積まなければならないという感覚はありました。ただ、当時の1、2年上の先輩と比べても実力では負けていると思ってなかったので、2年外に出ていたとしても巻き返せる自信はありました。
―その自信は素晴らしいですね。青年海外協力隊へ行くと決めて会社から何か言われたりしなかったのですか。
言われました。部署の一番上の上司からは最初「まぁ、1年後もう一度聞くわ」と反対されました。理由は一人抜けることでチームの数字がなくなることが困るということでした。
ただ、直属上司は僕のことを応援してくれていたので、青年海外協力隊に行くことを決意しました。
―青年海外協力隊に実際入るためにはどうしたらいいのですか。
まず応募したらテストがあって、言語試験(TOEIC)と2回面接をしました。
何を求められていたかを今振り返ってみると「言語も通じない、日本のような贅沢な暮らしができない中で人とコミュニケーションを取りながらゼロから物を作れる能力はありますか?」ということを聞かれていた気がします。
―具体的に面接のときに聞かれたことを教えてもらうことはできますか。
例えば応募したときに聞かれたのが
「未開拓の島があってその島には100人ぐらいの村人がいます。その土地の観光資源や物産はこれです。彼らが自給自足できるようなビジネスを作り、その国へ人を呼ぶためにあなたは何を使って、何をしますか?」
という質問でした。答えはなくてどうすべきなのかは”自分次第”という質問でしたね。
―面白いですね!質問はその場で聞かれるのですか。
一応事前に質問内容は聞かされていて、それを当日プレゼンする形式でした。学生は JICA(国際協力機構)のイメージが湧きにくいと思いますので説明をしますと、外務省のODA という政府の途上国に対する支援を行う団体で、技術協力と呼ばれるお金ではない部分で途上国に支援をしている組織です。そのJICAの一つのプロジェクトに青年海外協力隊があるイメージです。
―外務省の元の組織が運営している一つのプロジェクトということですね。それで、フィリピンに行くと。
二年間現地語はもちろん英語もしゃべれない中で行きました。
―具体的に何をしたのですか。
行く前にターゲットが決まっていて、僕の場合は、「障害者の団体が自給自足で生活ができるような組織づくり、仕事づくりを何でもいいからやってほしい」ということを現地の障害者団体から言われていました。
―だいぶ大まかな依頼ですね。
めちゃめちゃおおざっぱでした笑
A4一枚紙ペラに書かれた「今の現状。何人のこういう障害の人がいます。こういう町です。こういうことをしてください。」それだけでした。
―それってまさに面接で出された課題のようなものを実際にやってくださいということですよね。
そうなんです笑
現地について最初にやったことは、事実確認です。
紙に書かれていることは誰が言ったことかもわからなかったので、町の市役所職員が抱えている課題や障害者の団体が抱えている課題をまずは紐解くことから始めました。常に僕が何をすれば喜ばれるのだろうということを考えながら行動していました。
―2年もの歳月で何するのだろうと思いましたが、そんなところからのスタートとなると逆に短かったのではないでしょうか?
短かったですね。現状を把握した後、彼らが自分たちで作り続けられるような製品を作ろうと思い、野菜クレヨンを考えました。なぜ野菜クレヨンを作ったかというと3点狙いがありました。
1つ目は豊富に採れる野菜と花があったこと。
2つ目がクレヨンを作る過程が簡単。僕がいなくなった後もできるということ。
3つ目が日本と異なって子供がたくさんいるので消費されるだろうということです。
資金調達はクラウドファンディングを通じて得たり、プロモーションは現地のTVメディアに出て取材を受けたりとうまくいきました。ただそれまでに色んな失敗があったり、たくさん学びがあったのですが・・・。
※取材を受けている天野さん
―具体的にどんな学びがありましたか。
根本的に日本人が途上国に行くときは「何かしてあげなきゃ」というマインドで、僕も彼らが困っている前提でいたんですが、フタを開けてみると彼らは自供自足ができていたんです。
別に裕福な暮らしを求めるというわけではなく、普通にお米が食べれるとか、バナナが食べれるとか、家族と一緒にいれるそれだけで幸せだという人たちがほとんどでした。それが結局任期の最後の方に分かって、僕は生計向上という課題を与えられていたから何かお金を生み出すためのプロジェクトをやっていたけれども、本当に彼らが欲してたことが何だったのかを考えると、これが正しかったのかということは最後まで掴み切れませんでした。
ただ、そのプロジェクトを通じて感謝されたなと思うこともあったんです。障害者団体に属しながらも家に閉じこもって街に出てこない人がたくさんいました。
家の中で人生が終わっていたという人もたくさんいたと思うのですが、プロジェクトに関心を示してくれた人が街ぐるみでチームを作って、コミュニケーションが取りづらい人もどんどん街に呼びながら、一つのコミュニティを形成できたというのが最終的にその街に残った財産だったかもしれないなと思っています。
当初は「クレヨンを作り続けられるような販路を作る。」というかっこいいことを言っていましたが、あまりそこでは求められていなかった。でも最終的に残っていたのが、そのモノづくりをする中でできたコミュニティだったというのが成功なのか失敗なのかわかりませんが僕の中で深く感じたことでした。
―とても面白いですね。最初にやるべきことがあって最終的にできたことが目的ではないところで現地の方から感謝してもらえていたのですね。
そうですね。宝くじに当たった人がお金の使い方を知らないからすぐ使ってなくなってしまったという話はよく聞くと思いますが、現地の人でプロジェクトを通じて手に入れた1,000円で次の日に金髪にしたり、ストレートパーマかけたりする女の子がいました。
それはそれでよかったのですが、「現地の女の子が髪の毛を染めたり、パーマするお金を生み出すことを本当にやりたかったんだっけな」ということは考えさせられました。お金の使い方講座とかそういうことまでするべきなのかなとかも考えましたが、結局最初に僕がもらったA4の紙に書いてある「生計向上」と掲げられていた課題は、蓋を開けてみたら役所のトップが自分の実績にするために言っていたものかもしれないし、それは闇に隠されたまま日本に帰ってきた形です笑
でもその人たちがプロジェクトをする中で、人生の過ごし方を提供することは出来たことなんじゃないかなと思います。
―ちょっと話変わるのですが青年海外協力隊で向かう先の現地は、東京に住んでいる僕らにとってはライフラインがしっかりしていなくて衣食住はちょっと大変なイメージあるんですがそこは苦労しませんでしたか。
苦労しました。週の半分は下痢でした笑
脂っこい料理が多くて、基本的に真夏なので保存するために食事を脂っこくしてました。蚊もすごくいて衛生的にはあまりよくなかったように思います。
例えば衣食住の住でいうと、土の上に木を建ててわらをひいて3匹の子豚の家みたいな家でした。着るものは日本の古着があったりして穴が開いているけれども全然裸とかではなかったです。
―住むところと食べるものが大変だったということですね。
生野菜を食べる習慣もなかったので、野菜が恋しかったです。太りましたね。
―なるほど。そのような過酷な環境でも見つけられたやりがいってなんでしたか。
向こうで感じたのは、結局僕にはプロジェクトを遂行する上での知識やプロモーションするための手立てもなかったのですが、僕の情熱を伝える中でいろんな人を巻き込み、それがひとつの形になっていきました。
「この人があの人を呼んでテレビに出られるようになった」とか「この人があの人を呼んで野菜と花の供給ルートができた」とか。やりたいことを伝え、何が欲しいのかを明確にすることで、誰かがきっとついてくる。
そうやってコミュニティやプロジェクト、組織は形成されるんだと気づけた経験が僕にとっては良い経験だったと思っています。これは学生にも伝えたいことですね。
―素晴らしいですね。天野さんのお話を聞いている中で、言葉もあまり伝わらない中で現地の人が巻き込まれていくまでになるのは「言うは易く行うは難し」だと思いました。それって天野さんのどういう特性がいきたからだと思いますか。
そうですね。僕が現地で特に意識していたのは同じ飯を食べる、同じ言語を話す、同じ目線で生活をする、ということを意識していました。それで少しずつ仲間意識を現地の人たちが持ってくれたんだと思います。
「あいつは外から来たやつだ」ではなくて、「あいつは仲間だ。ファミリーだ。」って思ってくれる人が増えたことがうまく進めることができた要因にもなっていたかなと思います。
また、協力隊として派遣されている側の人でも家にこもってしまったり、心の壁を張ってしまう人が中にはいました。僕はそうではなく街中ランニングしたり、知らない人の家でご飯を食べたり自分からオープンにしていきました笑
僕の部屋に寝ていても人は入ってくるし、朝子供に起こされるしプライバシーはなかったんですがオープンにすることは特に意識していました。
―人とのコミュニケーションで壁を作らないことができるのは天野さんの強みなのかもしれないですね。
そうかもしれないですね。コミュニケーションも顔を見ながら話をすることを意識していました。言葉は完全にはわからないけど顔を見て話をする。この人本当はどう思っているのかなというのをよく観察して話をしていました。あとスマイルですね。大切です。
第3部│日本帰国後から日本M&Aセンターで働くまで
第4部│大学生時代と学生に向けて